開業150年を迎える日本の鉄道を考える(Part 1)

   ー鉄道開設の社会的意義と遺跡

♣ はじめに  

日本にはじめて鉄道が開設されてから150年。各地で記念の行事が開催されている。明治の文明開化、そして、西洋化を進めつつあった政府、国民にとって 日本初の鉄道開設は非常に大きな出来事であった。しかし、開設に至る政治社会過程、技術導入至る経緯には様々な努力と展開があったことは忘れてはならないだろう。このことは現在残る遺構や記録に鮮やかにみることができる。ここでは、鉄道遺産の写真や絵図、文書などを参照しつつ、鉄道創設に至る様々な試みと社会変化、鉄道技術の国産化の経過について概観してみようと思う。なお、この記事は、2022年10月、東京産業遺産学会で行った講演報告「産業遺産にみる鉄道と印刷技術」のうち、鉄道の部分を二部にわけホームページに編成したものとなっている。第一部は、鉄道開設計画の進展、鉄道工事の進展と貢献者、新橋横浜間鉄道開業式と民衆、鉄道開設の社会的影響、第二部は、拡大する鉄道網、鉄道技術国産化の過程、鉄道開設150年の行事と産業遺跡概観である。

参照: 産業遺産としての鉄道と印刷技術 (講演録)https://igsforum.com/2022/10/08/sangyoisan-railway-printing-jj/

♣ 鉄道開設に至る政治過程と記録文書

 明治政府にあって、特に鉄道建設に熱心であったのは大隈重信と伊藤博文であった。大隈は佐賀藩時代、藩主鍋島直正の命により作られた蒸気機関車の模型を目にしていたし、伊藤は留学時代、英国で実際に蒸気機関車が運行しているのを目にし、国力の源泉の一つは鉄道建設にあったと確信していた。一方、英国は、他国に先駆けて日本に鉄道建設を促すことで日本に影響力を及ぼし、英国の経済権益獲得を目指していた。 記録によれば、明治維新後、新たに政府代表となった大隈と伊藤は、鉄道は国内統一と産業の振興のため何を置いても早急に開設を進めるべきとしてパークスと水面下で接触、その早期実現に向けた交渉の結果一定の合意を得ていた。これを受けた明治政府は、当時、政府部内には否定的な意見も多くあったが、明治2年11月、英国から借款と技術支援を受ける形で鉄道を敷設することを正式に決定したことが伝えられている。

<鉄道建設の政府決定と記録文書>

 この決定された鉄道導入に関する明治政府の文書が「国立公文書館」や「鉄道博物館に保管されている。ここには政府が行った英国との技術・借款供与、そして東京・京都を結ぶ鉄道幹線構想、手始めとしての新橋横浜間の鉄道敷設の計画が明示されている。これらが戊辰戦争終結もまもない明治2年に始まっていることに驚きをおぼえざるを得ない。

参照:公文書と絵図に見る明治日本の鉄道開業 (part 2) 
https://igsforum.com/dawn-of-japans-railway-dev-in-meiji-j-pt2/

 内容は、東京・京都を結ぶ鉄道幹線の建設、新橋横浜間の鉄道敷設の方針であった。 また、同時に、新橋横浜間の鉄道路線の先行工事も承認され、早急に、同地区の鉄道敷設の測量も開始されることになる。この時定められた鉄道路線図面は国立公文書館に重要資料として展示されているので見ることができる(公文附属の図・五号 新橋横浜間鉄道之図)

 この鉄道路線をめぐっては、当時、軍部からの建設反対の意見が多く、兵部省が品川辺高輪地区の敷地提供を拒否したため、品川沖の海上に堤を築き海上を走らせるという世界でも珍しい路線となったことが記録されている。これがよく知られる「高輪築堤」による鉄道建設である。この歴史的築堤についてみると、戦後の品川一帯の埋め立てにより埋没して長い間確認できなくなっていた。しかし、2019年、高輪地区の再開発により遺構が発見され、現在、史跡として保存作業が進行中であることに触れる必要があろう。(国指定史跡「旧新橋停車場跡及び高輪築堤跡」)

♣ 鉄道の測量開始と工事の進展

 新橋横浜間路線図に基づき、実際の測量と工事が開始されたのは明治3年3月とある。この測量と工事は、英国から招聘された鉄道建設師長エドモンド・モレルの直接指導の下で実施された。当時、日本には鉄道建設の経験もなく、すべての作業を外国専門家の指導によって行わざるを得なかった。しかし、鉄道掛の井上勝、小野友五郎、上野景範などが測量・工事に加わるなど日本人の参画も多かったことも忘れられないだろう。また、海上埋め立てには実業家高島嘉右衛門、平野弥十郎らが土木作業を請負、外国技術者の指導・監督の下ではあるが、日本人の技術者も活躍している。特に、海上築堤工事については、伝統的な築城技術と江戸末期の台場建設も生かされていたと評価されている。

<難事業だった鉄道建設工事>

 このようにして、鉄道建設工事と測量は品面と横浜の両方面から開始されが、全線29kmのうち、1/3にあたる約10kmが海上線路という困難な作業になった。建設工事と測量は、品面と横浜の双方から同時に開始された。また、路線建設は海岸付近を通るコースが設定されたため、河川を渡る多くの橋も作らねばならず、開業時の橋は全て木橋という不安定なものであった。なお多摩川(六郷川)の六郷川橋梁については1875年にイギリスで製造された錬鉄製の部材を輸入して1877年に架け替えられた。(六郷川橋梁は、現在、名古屋のテーマパーク明治村に復元移設されている)

また、海岸付近を通る路線のうち田町から品川までの約2.7kmには前に触れたように軍の抵抗で6.4m幅の堤を建設して線路を敷設、旧神奈川駅から横浜駅(現:桜木町駅)までの約1.4kmも、幅6.5mの堰堤が建設されている。また、路線の枕木は当初鉄製の予定であったが、モレルの提案により安価で加工しやすい国産の木材を用いるなど工夫がなされている。初めての鉄道建設は、試行錯誤と工夫の連続であったことがわかる。

<蒸気機関車の導入>

 蒸気機関車の導入と運用も重要な課題であった。これらもすべて借款で英国から輸入して稼働させている。機関車と部品は、工事の進行と並行して横浜港から運び込まれ現地に据え付けられた。英国から輸入された蒸気機関車は全部で10両、すべて英国製で1号車はヴァルカン・ファンドリー社の機関車であった。この機関車は、現在、大宮の鉄道博物館に国の重要文化財として保全の上、現物展示されている。客車も、基盤の台車は英国製だったが、上部は木造にアレンジがなされ日本の木工技術が生かされている。この客車部分についても鉄道博物館で展示されていて一般に見ることができる。

<建設工事の完成と貢献者>

 かくして鉄道工事は、困難を伴いながらも逐次進行、2年半後にはおおむね完成するという異例の早さであった。そして、明治5年5月、新橋横浜間に初の鉄道路線が開通し、仮開業までこぎ着けることができた。この仮開業に先立って新橋停車場駅舎、旧横浜駅舎も完成していることも触れなければならない。
 ところで、外国人鉄道専門家として来日したエドモンド・モレルは、この難事業において日本の技術、社会状況をよく理解し、実情に即した指導を行った指導者だったと高く評価されている。しかし、このモレルは、彼の直接関わった鉄道事業の完成・開業見ることなく、病気が原因で亡くなるという悲劇に見舞われた。この「日本の鉄道の恩人」とも賛えられた功労者モレルの遺体は、現在、横浜の外人墓地あり、手厚く葬られている。

一方、井上勝は、モレルの後を引き継いで、その後の鉄道の発展を主導することになる。鉄道庁長官なった井上は、その後、大阪・神戸・京都、東京・京都間東海道路線の貫通などの難事業を次々と完成させるなど多大な貢献をしている。彼が「日本鉄道の父」と称される所以である。1910年亡くなった井上の墓所は品川の東海寺にあり、彼の墓標は記念碑と共に鉄道記念物に指定されている。

♣ 明治初期の一大イベントとしての鉄道開業式典

 日本で初めての鉄道路線の完成と開業を祝う式典が、明治5年10月11日(旧暦9月9日)、新橋、横浜両駅を舞台に盛大に行われた。この開業式では、明治天皇はじめ政府の高官、外国代表が新橋横浜間を列車で往復、会場には大勢の実業家、各界代表が参列する盛大な式典となった。また、沿線には一般市民多数が走る鉄道列車を一目見ようと詰めかけ大変な盛況ぶりであったという。この開業式によって政府は国家の威信を示し、近代機械文明の導入の成果を誇示する一大イベントとして位置づけていたことがわかる。この盛況ぶりは、当時描かれた多くの鉄道錦絵によってうかがい知ることができる。また、海外メディアにも大きく扱われるなど注目を集めたことが窺える。((これらは、旧新橋停車場鉄道歴史展示室の「鉄道開業150年記念」特別展の写真、絵画で詳しく知ることができる)

開業式の写真

<開業式の会場となった旧新橋駅と旧横浜駅>

 この式典行事の主要な舞台となったのは、前に触れたように旧新橋駅と旧横浜駅であった。この両駅跡は、その後、日本の鉄道建設創設を顕彰する産業遺跡となっている。
 このうち、出発駅となった新橋停車場は、関東大震災で焼失してしまったが、2003年、発掘調査の後、忠実に駅舎として復元され、史跡「旧新橋停車場」と銘打って当時の姿を再現させている。また、再建された建物内には「鉄道歴史展示室」が開設され、発掘された鉄道開通当時の遺品、写真のほか、駅舎基礎石の遺構を復元して展示している。また、同施設内に開設当時のプラットホームも復元、当時のレールと共に日本鉄道の起点を表す「0哩標識」を建て、日本の鉄道がここから始まったことを顕示している。

 一方、旧横浜駅は、同じく震災で消失した後、新JR桜木町駅として生まれ変わり、2020年には、駅構内に旧横浜駅を偲ぶ総合施設「旧横ギャラリー」が開設された。この施設の一角は、鉄道開業と旧横浜駅の姿を示す「旧横浜鉄道歴史展示」博物館コーナーとなっている。そこには開通当時の駅舎や周辺のジオラマ、開業時の写真パネル、記念品を展示しているほか、明治初期、実際に走行していた「110型蒸気機関車10号車」と客車の実物が展示されており大きな関心を呼んでいる。なお、この旧横浜駅近くに「鉄道発祥の碑」が建てられているのも忘れてはならないだろう。

♣ 鉄道開設のもたらした社会的影響と衝撃

 鉄道開設式は明治政府にとって国の威信を示すものであったが、同時に、一般国民にも大きなインパクトを与えるものだった。ここでは、明治期の鉄道のもたらした社会的影響を考えてみる。

 第一に、鉄道開設が国民の西欧機械文明、技術への覚醒を促した点があげられる。轟音を響かせて疾走する蒸気機関車は、民衆に目に見える形で機械文明の粋と文明開化を実感させるものだったと思われる。この様子は、当時描かれた多くの錦絵に明らかに示されている。築堤の上を走る鉄道を見物する民衆、富士山を背景に走る鉄道と見物する市民、横浜を発着する蒸気機関車を見守る民衆の姿が、この衝撃の大きさを表している。

 第二に社会制度の大きな変革を促す要因となったことだろう。まず、鉄道の導入を一つのきっかけとして時間の観念が変わった。明治5年12月を境として西欧と同じ「定時法」時刻採用が制度となった。鉄道の運行には正確な時刻管理が必要とされたのである。また、人びとの移動手段、貨物の運送手段も鉄道をきっかけに大きく変わった。物流・人流の劇的な変化をもたらしたのである。江戸時代までは、人の移動は徒歩か馬、モノの運搬は人か馬による荷駄に限られていたが、鉄道により大量の荷物を一度に且つ高速で運べるようになった。また、人の移動時間も革命的に短縮された。東京・横浜間の移動は、以前は1日がかりであったがわずか45分で結ばれるようになったのである。鉄道開通以降、鉄道網が全国に広がる中で、物流・人流の効率化が経済、産業、軍事全般に与えた影響は計り知れない。

 第三にあげられるのは、鉄道開設と整備作業を梃子として機械工作技術の進歩と国産化が大きく進んだことである。当初、鉄道に関わる機械設備、土木、整備運用はすべて外国に頼らざるを得なかった。しかし、その導入作業を通じた技術吸収により人材の養成が進み、時間はかかったものの国産機械技術の全的な発展につながっている。明治5年に設立された「鉄道寮新橋工場」における実践を通じた日本技術者の養成、明治10年に設立された「工技養成所」もその一つである。名古屋の明治村にある「機械館」は鉄道寮新橋工場を再現したものであり、日本工業大学の「機械展示場」に展示された歴史的な蒸気機関車、機械類にも、その経過を見ることができる。

♣ 鉄道開業に至る歴史点描

オランダ「風説書」

 以上みてきたように、明治政府は、鎖国文化を脱却し、鉄道開設という目に見える西欧機械文明の導入を梃子として経済社会の近代化と、産業の発展を目指していたことは明らかであった。しかし、明治以前の江戸末期にも、鉄道への関心と導入への試みがあったことも忘れてはならない。幕府は長崎出島にもたらされる「風説書」によって早くから西欧の鉄道開設の情報を入手し、蘭学者の間では蒸気機関車の原理や構造について一定の理解が進んでいたとみられる。また、幕末に欧州に留学した薩摩、長州の藩士たちは実際の鉄道運行を目にしている。

<ペリー持参した蒸気機関車模型と佐賀藩の蒸気機関車模型>

 こういった中、1854年(嘉永4年)二回目に開港を要求して浦賀来港した際、大型の蒸気機関車を持参し、幕府に「土産」として献上している。また、横浜の応接場でこれを実際に走らせて幕府の役人に披露、江戸城下でも幕僚が運行を目にしている。これが日本に持ち込まれた最初の蒸気機関車(模型)といわれる。また、これに先立つ、1953年(嘉永6年)には、佐賀藩代表が、長崎に来訪したロシア使節プチャーチンの艦船上で蒸気機関車模型を見聞し、記録を残している。さらに、この観察記録を参考に、2年後の1855年、同藩の研究施設「精錬方」で小型の蒸気機関車模型を完成させている。これを製作したのは、精錬方の技術者、中村奇輔、田中儀右衛門、石原寬二といわれる。このように江戸末期には、蘭学学者・技術者の間で、既に蒸気機関の構造や原理、走行のメカニズムなどについて相当な理解があり、実際に制作する能力を持っていたことがわかる。

 先の将軍家に献上された蒸気機関車は既に消失しているが、この複製品が鉄道博物館に展示されている。また、精錬方の蒸気機関車については、佐賀県立博物館に所蔵されている。

<幕末における米国との鉄道建設契約の顛末>

 また、明治政府が、英国との間で鉄道建設借款契約を締結する以前、米国も幕末に幕府との間で鉄道建設請負契約を締結していたことにも触れなければならない。米国公使ポートマンは、1868年(慶応3年)、江戸横浜間の鉄道敷設免許を申請し、幕府から認可を受けている。しかし、同年に、大政奉還となり江戸幕府は崩壊したことから、この免許は「無効」とし、明治新政府が契約を破棄している。これをめぐっては、米国との間で契約是非をめぐって紛糾したが、結果的には、英国との借款による「自国鉄道管轄方式」を優先したことで決着している。明治政府が、英国との合意を急いだこと、時間をおかず鉄道建設に着手したことも、このことが影響しているかもしれない。 かくして、始まった明治の鉄道開設は、その広がりを通じて、日本の近代化を加速させ、人びとの生活、経済、産業にも大きな変革をもたらすことになった。

 次の項では、日本人技術者主導の鉄道網の拡大、鉄道技術の国産化、鉄道を通じた工学技術者の育成、産業技術への影響について、考えてみる。

(Part 1 了)

参考とした資料:

  • 老川慶喜「日本鉄道史―幕末・明治編」(中公新書)
  • 中西隆紀「日本の鉄道創世記」(河出書房新社)
  • 小島英俊「鉄道技術の日本史」(中公新書)
  • 「開業150年!鉄道をつくった人びと」(東京人2022nen 11月号)
  • 「人物でみる日本の鉄道開業」(港区郷土歴史館 鉄道開業150周年記念)
  • 「概説 高輪築堤」(東京都港区教育委員会)
  • 「鉄道開業150年記念 新橋停車場、開業」(旧新橋停車場鉄道歴史展示室)
  • 「鉄道開業150年-公文書で描く鉄道と人々のあゆみ-」(国立公文書館)
  • 「鉄道博物館 図録」(大宮鉄道博物館刊)
  • 「鉄道博物館100年の歩み」(東日本鉄道文化財団)
  • 「横浜と鉄道―日本の鉄道発祥地150年の軌跡と未来」(旅と鉄道 編集部)
  • 港区ホームページ/高輪築堤跡 (city.minato.tokyo.jp)
  • 桜木町・旧横ギャラリー(旧横濱鉄道歴史展示) (machimori.main.jp)
  • 鉄道年表・鉄道の歴史 (tanken.com) https://tanken.com/tetudonenpyo.html
  • 鉄道寮新橋工場(機械館) | 博物館明治村 (meijimura.com)
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