(産業博紹介3) 国友鉄砲ミュージアムと国友一貫斎

ー 近世の歴史を変えた鉄砲(火縄銃)と国友鉄砲鍛冶の技術を探る

 今回は、日本の産業博物館紹介の第3回目として、近世の歴史を動かした鉄砲の意義と国友鉄砲鍛冶の歴史を示した「国友鉄砲ミュージアム」を紹介してみる。

○ 国友鉄砲ミュージアムとは

国友鉄砲ミュージアム外観

 国友鉄砲ミュージアム(国友鉄砲の里資料館)は、滋賀県長浜市の市民の熱意によって1987年に設立された火縄銃専門の博物館という。この博物館では、戦国から江戸時代にかけて鉄砲の生産地として栄えた国友の歴史に関する資料を数多く展示する。館内には、国友鍛冶の仕事場の様子や国友鉄砲の製作工程が映像や実物があり、江戸時代、鉄砲鍛冶として活躍し「反射望遠鏡」も製作した「国友一貫齋」の展示もみえる。日本に鉄砲が伝来し普及した歴史や開発された火縄銃の構造や製作技術を知る上で貴重な施設といってよいだろう。ちなみに、外国からの来訪者も多く、国友の歴史への関心と共に、手になじみやすく細工が良い、デザインが優れ、命中率が高いなど、国友火縄銃への評価も高いようだ。

はじめに

国友鉄砲鍛冶の仕事ぶり

 17世紀、ポルトガルから種子島にもたらされた「鉄砲」(火縄銃)は、その後、戦国大名によって天下の動静を左右する重要な武器として使われることになる。特に、信長などは、これをとみに活用し、戦いを有利に進めたことで知られる。この火縄銃の大量製作を一手に担ったのが「国友衆」。西欧からもたらされた鉄砲を分解し、鍛冶技術をつかって日本独自の火縄銃を造り上げた。当時の金属加工技術の水準の高さを示すものだろう。 この鉄砲製作の鍛造技術と歴史背景を紹介しているのが滋賀・長浜の「国友鉄砲ミュージアム」である。博物館では、火縄銃の歴史的意義を強調すると共に、(国友)鉄砲鍛冶の技術力の源泉と鍛錬、製作の過程や特徴、工芸的価値などを詳細に解説展示している。また、江戸時代、この火縄銃製作の名人であった「国友一貫齋」の鉄砲以外の発明(反射望遠鏡など)や科学的挑戦(天文学など)も紹介されており非常に興味深い。 今回は、博物館の展示サイトを見ながら、日本の火縄銃の特徴や性能、製作過程、技術の背景と価値、国友鍛冶衆の活動について考えてみた。また、国友一貫齋の多彩な活動にも触れてみたい。

♣ 国友鉄砲ミュージアムの展示

展示室の様子

 博物館の一階部分は常設展示となっていて、国友鉄砲の歴史や火縄銃の仕組み、最大の鉄砲生産地として栄えた国友村の歴史の紹介があり、郷土の偉人である国友一貫斎が作り上げた火縄銃の実物なども多数展示されている。二階フロアの大展示室では、鉄砲の伝来の歴史や、国友での鉄砲生産現場の様子について紹介されている。ここの展示では、なんといっても各地から集めた数十丁もの火縄銃が整然と並べられていて銃の形、種類の多さに驚くが、時代を経てもなお古さを感じなさせない存在感を示している。また、火縄銃の仕組み、製作に使われた道具など、当時の鉄砲鍛冶の様子が、映像を通じ音と音声ガイドで体感できるうえ、火縄銃の実物に触れることができことも魅力であるという。

国友の火縄銃の展示
国友鉄砲鍛冶の作業場展示

(火縄銃製作の歴史意義と国友鍛冶集団) 

火縄銃製作の地・国友

 博物館で紹介されている資料によれば、16世紀、種子島に伝来した鉄砲は、当初、薩摩藩から将軍家足利家に送られ、これをモデルに同じものをつくるように命じられたのが「国友鍛冶」であった。この仕掛けを見た国友鍛冶は、一年かけて同型の国産火縄銃を完成させたと伝わっている。当時の国友の鍛冶技術が非常に優秀であったことが想像できる。これをきっかけにして鉄砲が大量に製作されるようになると、大名達は戦術兵器として鉄砲の有用性を強く認識して様々な戦いに使うようになる。これにより戦国時代、戦いのあり方が大きく変化したという。

  例えば、鉄砲足軽兵の投入、甲冑や武器具の変化、戦闘空間の変容、城郭建築構造などにも大きな影響を与えていった。特に、織田信長は早くから鉄砲に関心を寄せたようで、国友鉄砲锻冶たちから鉄砲五百挺の調達し、各地の戦闘に用いたことで知られている。家康も国友鉄砲鍛冶の集団を直接支配下におき銃砲製造工場の役目を担わせたといわれる。国友以外にも、堺や、根来、雑賀などでも火縄銃の生産は盛んに行われたが、国友の鉄砲製作は特に数が多く、技術も優れていたという。このように戦国期を通じて、鉄砲の普及と戦闘への活用は、信長、秀吉、家康につながる天下統一に大きな役割を演じることになったことは間違いない。※1 

火縄銃の「尾栓」構造とネジ
東芝」の祖・儀右衛門と和時計

また、産業技術面でみてみても、西欧の鉄砲を分析し、その構造を理解しただけでなく、僅かな期間に同種の鉄砲を製作しえた鍛冶集団の技術力の高さを示していると考えられる。こういった技術的基盤が、江戸、明治を経て日本の近代化を促進させた機械工作の定着に生かされていったと容易に想像できる。特に、日本にはなかった「ねじ」加工技術については、種子島に渡来した火縄銃の「尾栓」作りにはじまっており、19世紀半ば、江戸の職人「からくり儀右衛門」がねじ切り装置を製作、和時計の部品にねじを使用するなどの事例もみせている。※2

※1  歴史の歩みを加速させた兵器「鉄砲」 https://www.ritsumei.ac.jp/~hyodot/semihomepage/koduchi.nagahama1.html
※2  日本のねじと産業のあゆみ日本ねじ工業協会 https://www.fij.or.jp/fastener/history.html

♣ 技術集団、国友鉄砲鍛冶の特徴と役割

(国友鉄砲鍛冶集団の誕生)

 種子島に伝来した鉄砲を早くも翌年から鉄砲を作り始めたのが国友地域の鍛冶職人たちだったことは前に述べた。この鉄砲を最初に模倣したのは種子島の八板金兵衛という人物であったというが、鍛冶職人国友善兵衛が国友村で火縄銃を製作をはじめてから、この地で多くの鉄砲がつくられ鉄砲鍛冶集団が形成されたと伝えられている。

  国友鉄砲博物館のパンフレット解説によれば、火縄銃は基本的に「銃身(鉄部分)と銃床(木製部分)、引金、火縄鋏み、火蓋、地板などの金具の部分からなっている。銃身は、よく鍛錬した瓦金を丸くパイプ状にし巻板(帯状の細長い鉄板)を巻いて(カツラ巻)補強する。そして、これを丸や八角形に仕上げ、ネジを切り、火皿、目当てを付けて完成」という複雑な工程でなりたっている。近江国友村で、この火縄銃を量産できたのは、優秀な鉄砲鍛冶職人が多数いたことに加え、工程を分業体制で製作していたことだという。

国友鉄砲鍛冶衆

 銃身を作る「鍛冶師」、銃床を作る「台師」、引金や火鋏み部分(カラクリ)を作る「金具師」の3人がおり、製作体制としては、年寄・年寄脇・平鍛冶と組織をつくって大量の鉄砲の注文に対応していた。最盛期には、70軒の鍛冶屋と500人を越す鉄砲鍛冶職人がいたとされる。博物館内では、これら鉄砲の伝来の歴史や国友での鉄砲生産の様子をジオラマや映像でよく伝えている。日本における、分業による産地形成(クラスター)のはしりともいえるだろう。ともあれ、天正3年の「長篠の戦い」では、3,000挺の鉄砲が使用され、うち500挺は信長より受注を受けた国友鉄砲が使われたという。非常に興味深い話である。

(科学者としての鉄砲鍛冶国友一貫斎について)

国友一貫齋

 博物館では、国友の偉人と言われる国友(藤兵衛)一貫齋の人物像、鉄砲鍛冶での活躍、発明家・天文学者としての功績について詳しく紹介している。これによれば、一刀斎は、安永7年(1778)、近江国国友村に御用鉄砲鍛冶の家に生まれ、17歳で鉄砲鍛冶の「年寄脇」の職を継いでいる。そして、鉄砲鍛冶名人として名をあげたが、その後、江戸に長く滞在し老中松平定信の依頼で『大小御鉄炮張立製作』を記す。また、強力な空気銃「気砲」を製作。この制作にあたっては圧縮空気作用の原理を把握し、空気に重さがあることを日本で初めて発見した人物ともいわれる。特に、英国製のグレゴリー式望遠鏡の構造を研究し、1823年には国産初の反射望遠鏡を完成させていることが功績としてあげられる。また、自作の望遠鏡で天体観測を行って、月のクレーターや木星衛星のスケッチを描き残し、太陽黒点の観測を行った結果、その図面を残している。この図面は非常に正確で、日本の天文学史上の貴重な資料とされているという。鉄砲鍛冶に止まらない当代随一の発明家、学者としての側面を示している。この国友鉄砲ミュージアムでは、多数の国友一貫斎が作り上げ火縄銃のほか、国友一貫斎と国友源重郎の合作した火縄銃100匁大筒も展示されている。また、一貫斎の発明した反射望遠鏡、月のクレーターと太陽黒点の観測記録も展示されているのは興味深い。(※2  国友一貫斎の生涯と技術力 https://kunitomo-teppo.jp/ikkansai/story/

一貫斎作の大筒(百目玉筒)
反射望遠鏡
月のスケッチ



♣ 種子島鉄砲博物館(史跡)(鹿児島県)

最後に、ポルトガルが鉄砲を伝えたという種子島の「鉄砲館」を紹介しておく。

種子島鉄砲博物館外観
  • 種子島開発総合センター鉄砲館 ttps://tanekan.jp/teppoukan/
        鹿児児島島県県西之表市市西之表  Tel.0997-23-3215

 この博物館では、種子島の歴史・文化・自然などを広く紹介している。外観では、南蛮船をイメージした外観が目を引くが、1543年種子島に伝わったポルトガル銃や国産第1号の火縄銃、さらに国内外の旧式銃約100挺が展示されており、火縄銃の歴史や世界の鉄砲の様子が見学できまるようだ。

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(付記)

 今回は、バーチャルの博物館訪問になったが、国友鉄砲ミュージアムのホームページやその他の文献資料によって、西洋からもたらされた火縄銃の中世歴史に及ぼした影響、鉄砲導入に関する逸話、火縄銃の構造や製作のため働いた鉄砲鍛冶の役割、とりわけ近江・国友村の鉄砲鍛冶集団の築いた製作技術体制など学べることが多かった。また、国友村で生まれ鉄砲鍛冶となった国友一貫齋が、鉄砲製作だけでなく、反射望遠鏡を開発し、江戸期の天文学発展に大きく貢献したことなどをはじめて知ることができた。また、火縄銃に関係する技術事項としては、これにより日本にはじめて「ネジ」がもたらされ機械工学上の新しい展開が計られたことなども私にとっても新しい知識だった。残念ながら、これまで訪問の機会がなかったが、機会があれば是非訪ねてみたい博物館である。

  • 参考になる資料と参考にした資料

(了)

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