―― 公文書から見た日本の明治の鉄道開設の経過ー明治鉄道創生記 (2)
明治日本の鉄道経過について、前回、文書・絵図から背景を素描してみたが。第二部では、この根拠となっている国立公文書館の公文録、大政類典、国立国会図書館の所蔵の「日本鉄道史」の内容を紹介すると共に、明治鉄道開設に貢献した人々を探ってみた。これらを参照するにつけ、歴史の証人たる公文書の重要性を改めて認識した。
♣ 明治日本の鉄道開設に貢献した人々
ここでは、日本初の鉄道建設に尽力した人物について、主立った働きをしたと考えられる11名をレビューしてみた。
・大隈重信
出身は佐賀藩士、幕末には尊王派として活動する一方、外国交渉で手段を発揮。明治初期に参与、大蔵大輔として活躍した。鉄道建設については、明治2年、伊藤博文と共に英国公使パークスと協議して日本初の鉄道開設の道を開いた。明治10年代には、憲政改革に関与して立憲改進党を結成、後に、外務大臣、内閣総理大臣として政界でも活躍。早稲田大学を設立したことでもしられる。
・伊藤博文
長州藩出身の政治家で、幕末、吉田松陰の「松下村塾」に学んだ後、藩の命により英国に留学。明治維新に活躍した「長州ファイブ」の一人に数えられる。鉄道建設では、大隈と共に英国公使パークスとの交渉に加わり鉄道開設に道を開いた。明治期全般にわたって常に政権の中枢にあり、明治憲法の草案作成にも当たっている。日本初代の総理大臣でもある。
・井上勝
長州藩士出身。江戸末期に藩校明倫館、蕃書調所で航海術を学んだ後、藩命で伊藤、山尾などと共に英国に留学、帰国後は鉄道技術者として活躍した。特に、明治期の鉄道建設推進に当たっては、行政・実務の中心的な役割を果たし「鉄道の父」とも呼ばれる。日本初の鉄道、新橋横浜間の工事に当たっては、英国から派遣された鉄道技術者モレルを助けて明治5年無事開通を成功させた。その後、鉄道寮鉄道頭となり、神戸 – 大阪間、大阪 – 京都間の鉄道も開通させ全国的な鉄道網の拡大に寄与している。また、「工技生養成所」を設立して鉄道技術者養成にも大きく貢献した。
・ハリー・スミス・パークス( Harry Smith Parkes)
幕末から明治初期にかけ18年間駐日英国公使を務め、日本の政治動向深く関わり、また外交問題でも大きな役割を果たした。鉄道建設では、日本初の鉄道建設を大隈重信、伊藤博文に進言し実現に結びつけている。また、建設実現のための借款をレイに(レイ借款)、技術者としてモレルの派遣を取り決めるなど、鉄道建設に関わる政策面での貢献は大きい。
・エドモンド・モレル (Edmund Morel)
イギリスの鉄道技術者で、明治初期、御雇外国人として日本初の鉄道建設に貢献した。特に、新橋・横浜間の建設工事では、日本人を指導しつつ短期間で工事を完成させ、開通に導くなど日本の鉄道の礎を築いたことで知られる。不幸なことに開通前に結核で死去してしまうが、その後は井上勝など日本人技術者が引き継いで完成させた。また、当初鉄製の予定だった「枕木」を国産の木製に変更するなど、日本の実情に即した提案を行ったことでも知られる。また、日本の地形にあった「狭軌」軌間を採用を提案したのも彼といわれる。(「狭軌」軌間について、井上勝は、後に、「先見の明がなかった」と述べたが、当時の財政力、地形の点からやむを得なかったとの評価となっている)
・リチャード・ヴィカーズ・ボイル(Richard Vicars Boyle)
英国の土木技術者で、明治初期、建築師⻑(エドモンド・モレルの後任)として⽇本に滞在、日本鉄道建設に貢献した。特に、英国技術者、日本技術者と共に明治期の鉄道建設を進めた功績は大きい。また、ボイルは新橋横浜間以外の路線拡大について、東京・京都を結ぶ幹線として中⼭道幹線建設を提言、東京・高崎間の測量調査も行っている。後に、幹線建設は東海道線に変更されたが、中山道のうち東京・高崎間は明治18年に開通している。
・山尾庸三
長州藩士で、文久3年(1863)、伊藤、井上などと共に長州藩の命を受け英国に留学。グラスゴーのネピア造船所 技術研修を受けた後帰国。、横須賀製鉄所の後モレルの提案を受けて、明治3年、工部省の設立に尽力、工学寮と測量司の長に就任し日本の鉄道開設に行政面で大きく関わる。その後、後に東京大学工学部につながる技術者養成機関の「工学校」創設した。
・小野友五郎
江戸時代末期から明治時代にかけての日本の数学者・海軍軍人・財務官僚として活躍。幕府の海軍伝習所の後、築地の軍艦操練所教授方となり、測量・航海術の専門家として「咸臨丸」の遣米使節に勝海舟と共に参加。鉄道建設では、新橋横浜間の鉄道建設測量を始め、中山道、東海道などの地形測量に大きく貢献している。数学の普及に力を尽くしたほか、東京天文台の創設にも関わっている。
・高島嘉右衛門
幕末から明治に架けて活躍した横浜の実業家で、外国人向けの商品販売、材木商、建設業などで成功、その後、横浜の埋め立て事業を手がけ横浜の発展に寄与している。明治の鉄道建設では、大隈に依頼され線路短縮のための横浜港埋め立ての事業を請け負った。日本初の私鉄「日本鉄道」の創始にも関与。高島は「高島易断」の創始者としても有名。
・田中久重
江戸時代後期から明治にかけての技術者、発明家。九州久留米の出身で、佐賀藩主鍋島直正の「精煉方」に着任し、国産では日本初の蒸気機関車及び蒸気船の模型を製造している。また、製鉄では反射炉の設計と大砲製造にも関わっている。この鉄道模型は、後の鉄道蒸気機関車製造の嚆矢となった。田中は、後の芝浦製作所(後の東芝の重電部門)の創業者ともなっている。
♣ 明治日本の鉄道開設に関連した「公文録」

「公文録」は、明治元年から明治18年(1885)までの、太政官が各省との間で授受した文書を、年次別・機関別に編纂した総冊数4000冊を超える資料群。平成10年(1998)に国の重要文化財に指定されている。 鉄道関係については、明治政府の鉄道開設決定以降の明治2年から明治6年まで約150点が収録されている。以下のその一部。
<鉄道開設決定にいたる経過文書>
東京横浜ノ間鉄道製作ノ儀申⽴ 明治02年11⽉
(鉄道開設決定の廟議をへて、外国への借款、工事開始への決定を示した公文録。この鉄道開設に重要な役割を果たした大隈重信、伊藤博文の署名がみえる)
東京横浜ノ間鉄道建築⽶⼈ホルトメント⼩笠原壱岐約束ノ儀ニ付同公使ヘ論駁伺 明治03年06⽉
(江戸時代末期、徳川幕府はと米国との間で鉄道開設請負の契約書を交わしていたが、明治政府はこれを破棄し、英国と「自国管轄方式」による建設を行うことを決定した。その際、米国の契約違反の抗議に対し、政府は江戸幕府との「契約」は前政権によるもので無効として「破棄」を通告した。これはその根拠となった「論駁」の文書。明治政府の鉄道建設決定については外交面で紆余曲折があったことが分かる。米国との関係はその一つであったといわれる。)

東京横浜ノ間鉄道製作ノ儀申明治02年11⽉

<鉄道建設工事開始・進捗に関する文書>
鉄道製造測量ノ儀ニ付達 明治03年
(神奈川県の工事区域について、測量を開始するとの沙汰文書)
阪神間鉄道敷地トシテ潰地相成候⽥畑御処分ノ儀伺 明治03年
鉄道製造ニ付道筋測量ノ儀達 明治03年06⽉
(各地の鉄道建設促進のため対象地域内の測量を開始するとの通達文書)


鉄道製造ニ付⾼輪町兵部省⽤地ヲ引渡伺 明治03年07⽉
(新橋横浜間の鉄道建設のため、品川高輪地区の兵部省敷地の一部を引き渡すことを決定した文書)
品川沖台場ノ⽯類鉄道建築⽤ニ取⽤度伺 明治03年12⽉
横浜鉄道ステーション設置ニ付新道取開伺 明治04年04⽉
鉄道建築ニ付品川県下ノ者苦情申⽴ニ付上申 明治04年04⽉
(品川県有志による鉄道建設に付随した被害についての苦情を示した申し立て受付文書)



塩留橋際鉄道地⾯近傍町家引払ノ儀申⽴ 明治04年05⽉
鉄道開社ノ儀伺 明治05年10⽉
(新橋横浜間の鉄道開設に伴い、その鉄道運営体を創設することを決した文書)
鉄道略則伺 明治05年02⽉
(鉄道運営規則を定めた文書)



品川横浜ノ間鉄道仮賃銭伺 明治05年03⽉
(新橋横浜間の鉄道開設に伴う乗車運賃の定め)
東京横浜間鉄道開局伺 明治05年05⽉


<新橋横浜間鉄道開業式関係文書>
公⽂録・明治五年・第六⼗巻・壬申・鉄道開業式伺(明治05年)
(天皇臨席の下に新橋横浜間の鉄道開業の式典を執り行うことを布告した文書。以下の項目を含む41件からなる)

♠東京横浜間ノ鉄道竣功開業伺并御国旗ノ儀左院ヘ御下問 明治05年
♠諸御布告御達伺、開業式御執⾏御布告、… 明治05年
(「諸御布告御達伺、開業式御執行御布告、本日品川横浜汽車休業翌日ヨリ新橋横浜間運転始業御布告、諸官員ヨリ華族平民迄拝見被差許御布告、奏任官以上鉄道館参集御布告、兵隊供奉護衛并祝炮式陸軍省ヘ御達、祝砲式海軍省ヘ御達、各国公使ヘ通達ノ儀外務省ヘ御達、邏卒取締ノ儀司法省ヘ御達、開業本日雨天ノ節延日ノ儀往復神奈川県ヘ御達」とある)
♠十二日開業式御執行御布告、本日品川横浜間汽車休業翌日ヨリ新橋横浜間運転始業御布告… 明治05年
(「本日品川横浜間汽車休業翌日ヨリ新橋横浜間運転始業御布告、奏任官鉄道館参集御布告、諸官員ヨリ華族平民マテ拝見被差許御布告、本日休暇ノ儀御布告」とある)
♠各国公使ヘ通達ノ儀外務省ヘ御達 明治05年
(「兵隊供奉護衛并祝砲式陸軍省ヘ御達、邏卒取締ノ儀司…」とある)
♠臨幸御先駈ノ儀東京府ヘ御達
♠勅語案并内外奏文言上案
<東京以遠の鉄道延伸に関する文書類>
♣本府ヨリ越前敦賀迄鉄道建築ニ付測量等ノ儀伺 明治04年04
♣ 京都ヨリ⼤坂迄鉄道建築ノ儀伺 明治04年09⽉
(鉄道会社設立の上、京都大阪間の鉄道建設を行うことの申請文書)
♣ 京阪間鉄道建築ニ付御布告伺 明治05年02⽉
♣ 東京ヨリ陸奥⻘森マテ鉄道建築御達 明治04年10⽉
(東京より青森までの鉄道建設についての通達文書)
♣ 京阪間鉄道建築伺 明治05年02⽉
(京都大阪間の鉄道建設についての提案文書。付図付き)
⻄京⼤坂ノ間鉄道築造条約ノ儀伺 明治06年05⽉





♣ 明治日本の鉄道開設に関連した公文録付属の図・表
○ 新橋横浜間鉄道之図
(明治5年の日国最初の鉄道開設に際して作成されたと推定される、新橋横浜間の鉄道路線図)

○ 東京高崎間鉄道線路図
(明治14(1881)年12月23日工部卿佐々木高行から太政大臣三条実美に提出された東京高崎前橋間の鉄道線路図。明治14年11月政府から特許を下付された日本鉄道会社により、明治16(1883)年7月、上野・熊谷間を開業、翌年高崎・前橋に延長、明治18(1885)年3月、品川・新宿・赤羽間を開業して官設鉄道と接続)

♣ 明治日本の鉄道開設に関連した大政類典
太政類典は、大政奉還があった1867年(慶応3年)から1881年(明治14年)まで、三職や太政官制の下で記録された『太政官日記』、『太政官日誌』、公文録などの布告の文書から典例条規(先例・法令など)を六類に分けたりして浄書・採録した全集。鉄道関係については、第三類の運漕野中の陸運鉄道7冊に記録されている → 太政類典・第一編・慶応三年~明治四年・第百三巻・運漕・陸運三・鉄道電信郵便
<太政類典抜粋>
♠ 外務省蒸気車鉄道志願ノ者ニ着手セシメント請フ 明治02年
(日本において鉄道開設を促進することを声明する文書。「東京ヨリ大阪西京の間または奥州三越より山陰山陽西海の諸道マで仕掛け候様被成度との御廟算・・・」とある)
♠ 神奈川県下鉄道路程築造方民部省ヘ委任ニ付同省ヘ協議セシム 明治03年04月15日
♠ 東京神奈川間鉄道線路測量並鉄道敷地ニ係ル処分 明治03年03月17日
(東京横浜間の鉄道建設に関連した測量と敷地の処分に関しての各県並びに省庁、機関への通達書)



♠ 横浜鉄道ステーションヘ往来運輸ノ道敷開設 明治04年04月
♠ 京都府外一府十一藩二県下鉄道線路測量 明治03年06月18日
♠ 中山道板橋宿ヨリ京坂迄鉄道線路測量 明治04年03月09日
♠ 京都ヨリ越前敦賀迄鉄道線路測量 明治04年03月10日
♠ 東京横浜間鉄道横切道通行者心得 明治05年05月04日

♠ 品川横浜間鉄道仮開業 明治05年05月03日
(新橋横浜間の鉄道の仮開業に関する文書。東京横浜間の鉄道開通に伴う開業式の運営に関する詳細文書。式の進行から開業式に運行する鉄道の乗車名簿まで詳しく記録している)
♠ 東京横浜間開業式及臨業諸件・二十三条 明治05年08月24日
♠ 鉄道略則并改正・二条 明治05年02月28日
♠ 出発時刻并運賃表 明治06年02月22日
♣ 日本鉄道史(鉄道省)
戦前に鉄道事業を総括していた鉄道省官房文書課が1921年(大正10年)に編纂した日本の鉄道に関する歴史文書。明治期については、日本初の鉄道開設に至る経緯や決定事項を詳細に記している。特に、明治政府による新橋横浜間の路線決定、大隈・伊藤の関与、資金、技術者受け入れについて詳しく触れている。
廟議決定事項(明治2年11月10日)として「幹線ハ東西両京ヲ連絡シ、枝線ハ東京ヨリ横浜ニ至リ、又琵琶湖辺ヨリ敦賀ニ達シ、別ニ一線ハ京都ヨリ神戸ニ至ルベシ」の記述あり。


廟議決定事項(明治2年11月10日)の記述
鉄道古文書(鉄道博物館所蔵)

「鉄道古文書」は、1870年(明治3年)から1893年に架けて日本の鉄道の予算、建設、組織など鉄道に関する全てを記録した古文書。文書は4部に分かれており、年代の古いものから「鉄道寮事務等」「工部省記録」「鉄道局事務書類」「鉄道庁事務書類」となっている。文書は、関東大震災で一部消失しているが、鉄道創業期を物語る重要な文献資料として鉄道記念物に指定されている。
(付属絵図)



(了)
参考となった文献資料
- 「日本鉄道史―幕末・明治編―」老川慶喜(中公新書)
- 「日本の鉄道創世記―幕末明治の鉄道発展史―」中西隆紀(河出書房新社)
- 日本の鉄道史 Wikipedia
- 日本の鉄道開業 Wikipedia
- 「鉄道博物館図録」―鉄道文書―
- 日本鉄道史(鉄道省)明治鉄道創始(国会図書館デジタルアーカイブ)
- 国立公文書館デジタルアーカイブ(明治鉄道・・)
- 明治鉄道開業関係公文書(訂正類典M2-M9)
- 公⽂録・明治五年・第六⼗巻・壬申・鉄道開業式伺
- 公⽂附属の図・五号 新橋横浜間鉄道之図
- 『安政四年丁巳別段風説書並添書 』 安政5年 (1858)
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