菅谷たたら「鉄の歴史博物館」と「鉄の歴史村」の紹介

ーたたら製鉄の歴史や技術、吉田村たたら山内の人々の生活が偲ばれる史跡と資料展示ー

はじめに 

現在の菅谷たたら山内の集落

  中国山地、なかでも奥出雲は、「たたら製鉄」の歴史は古く、古代の「野だたら」や近代の「永代たたら」などの産業遺構が数多くみられる。また、製鉄を生業とする鉄山経営者を中心に、古くから製鉄技術集団が形成されていたという。また、明治時代に近代製鉄法が輸入されるまでは、この地方は日本の鉄産業の主導的役割も果たしていたとみられる。特に、島根県飯石郡吉田村菅谷周辺には、現在でも高殿式の「たたら」や産業遺構、居住空間を数多く残しており、歴史的文化的にも貴重なものとなっている。こういったことから、こういった有形・無形の文化遺産を長く保護し継承しようと、1986年、吉田村に「鉄の歴史村」が創設された。この運営に当たっているのが「鉄の歴史村地域振興事業団」である。現在、この事業団の基で、「たたら」についての調査研究、保全、後継者育成、広報活動が取り組まれている。この活動の中核となるのが博物館の活動で、「鉄の歴史博物館」「菅谷たたら山内高殿」「菅谷たたら山内生活伝承館」が設立されている。ここでは、この三つの博物館施設の内容を紹介すると共に、「鉄の歴史村」事業全体を紹介してみようと思う。

♣ 菅谷たたら「鉄の歴史博物館」

所在地:島根県雲南市吉田町吉田2533番地 http://www.tetsunorekishimura.or.jp/history

鉄の歴史博物館の外観

 この博物館では、主として、たたら製鉄の歴史や技術・人々が使っていた道具の展示を行っている。 展示は、展示1号館~たたらとその技法~、展示2号館~鉄山経営と鍛冶集団~となっている。

(展示1号館の展示)
   :「鉄の発生」と「鉄をつくる」の歴史展示

鉄の歴史博物館の展示

 石や木の道具しか使っていなかった時代から、鉄のくわやすきなどの道具を手にした古い歴史、また、大陸から鉄をつくる技術が伝えられ、良い砂鉄と木炭を産する吉田地域で「野だたら」による鉄づくりが盛んに行われた様子。そして、江戸時代、「永代だたら」がはじまり、菅谷地区では「高殿」が築かれて「村下」(むらげ)と呼ばれる職人が作業を指揮したことが記されている。現在、この高殿が再現され展示されていることも述べられている。(「菅谷たたら山内‐菅谷高殿」参照)

(展示2号館)の展示

 ここでは鉄山経営と鍛冶集団というテーマで、鉄山師・田部家による「たたら製鉄」の記録や生活、鍛冶集団の活躍が記されている。鋼造り、馬・人・船による鉄の運搬流通、大鍛冶、小鍛冶の作業内容や技術が紹介され、また、村の鍛冶屋で行われる“くわ”、“すき”、“おの”などの製作の様子も再現されている。

♣ 菅谷たたら山内‐菅谷高殿 

所在地:島根県雲南市吉田町吉田4210番地2  (http://www.tetsunorekishimura.or.jp/sugaya

菅谷高殿のある建物

 江戸時代より「たたら製鉄」産業が盛んであったとされる吉田地区の繁栄を象徴する産業遺産「高殿」を軸に、たたら職人の技術と生活を紹介する施設として知られる。展示としては次のものがある。

(菅谷高殿とたたら製鉄)

吉田町では、江戸時代、高殿を構えての「たたら操業」盛んに行われていたといわれ、現在、日本で唯一今に残っている「菅谷高殿」を見ることができる。これは1751年から1921年(大正10年)まで、170年間にわたって操業が続けられたもの。また、たたら製鉄に従事していた人達の職場や、住んでいた地区は総称して「山内」と呼ばれるが、製鉄で山内が盛えた頃を偲ぶことのできる町並みがまだ残っている。
たたらの聖地 – 雲南 たたらの聖地、出雲神話の里 (unnan-tatara.jp)参照)

(作業小屋と職人の技)

作業小屋の様子

 ここでは、天保末期の頃の「元小屋」と呼ばれる生活と仕事の小屋が、現在、改造、補修してされて展示されている。水車で分銅を落として鉧を粉砕する現場(「大銅場」)、村下の仕事ぶりと技量、村下清めの道「村下坂」、かつて生産した鉄を松江から大阪まで運んでいた千石船「鐵泉丸」などの展示も見られる。菅谷高殿のすぐ裏には「金屋子化粧の池」という信仰の場があったことも興味深い。

♣ 菅谷たたら山内‐生活伝承館 

島根県雲南市吉田町吉田892番地1 http://www.tetsunorekishimura.or.jp/sdk

菅谷たたら山内‐生活伝承館 

 ここでは、当時使われていた様々な民具が展示。雲南市吉田地区の山内に住む人たちが残してきた生活遺産を大切に引き継ぎ公開している。当時の生活に使われていた様々な民具が展示され、山内独特の慣習や生活を通してたたら製鉄を支えた人々の心のありさまを垣間見ることができるようだ。

かつての菅谷山内の様子

HP「鉄の道文化圏」の「“山内さんない“の仕事と暮らし」によれば、『山内では、たたら製鉄の中心施設である「高殿」を中心として集落が形成され、人々は、製鉄のみに従事することから独特の社会が形成された。集落は、おおよそ小さな村(現在の自治会:100~200人)程度で、10~13坪ほどの広さで、ここに職人とその家族が同居。近隣の農村の村人たちは野菜や柿などの販売に山内を訪れたほか、築炉のための粘土の運搬や砂鉄採取、小炭の供給といったたたらに関連する作業にも一部従事するなど、山内と村人との間には交流があった』」とされる。https://tetsunomichi.gr.jp/history-and-tradition/environmental-facts/part-1/ 伝承館では、こういった生活の状況が展示物で表現されている。

  • (参考)宮崎駿の「もののけ姫」にも用いられた「山内」の生活

 たたら製鉄が盛んであった吉田地区の「山内」の社会とは生活は、アニメの台詞の中に生き生きと描かれているようだ。以下はその引用。→HP「鉄の道文化圏」中の“映画『もののけ姫』とたたら製鉄”

  『犬神に襲われケガをした牛飼いの甲六をアシタカが送り届けたときのセリフ。戦国武将の城のような堅牢な造りに驚くアシタカですが、実際たたら製鉄を行う集落は、付近の農村とは隔絶した自治領のような存在でした。たたら製鉄者たちの集落は「山内さんない」と呼ばれ、人口は100~200人ほどあり、山内だけで通用する銭札も発行されていました。山内には技術責任者である「村下むらげ」、村下の補助役である「炭坂すみさか(あるいは裏村下)」、炉へ炭を入れる「炭焚すみたき」、鞴ふいごを踏む「番子ばんこ」、使い走りの「手子てご」、できた鉄塊やケラを粉砕したり選別する「鋼造はがねづくり」、さらには炭を焼く「山子やまこ/やまご」、砂鉄を採取する「鉄穴師かなじ」などがいました。もちろん甲六のような牛や馬で荷物を運ぶ運搬人たちもいました。」
 これら山内のすべてを取り仕切るのが「鉄師」で、広大な山林を持ち、山林から採れる木炭や砂鉄を使って職人たちに鉄を作らせ、さらに彼らの生活全般の面倒をみました。ちょっとした小領主といった存在で、『もののけ姫』におけるエボシ御前はまさに鉄師と言えます。資産家である鉄師は、地域にさまざまな文化をもらたす役割も果たしました。エボシ御前やたたら場の女たちが使っていた石火矢も、エボシ御前(=鉄師)がもらたした文化の一つと言えるかもしれません』。https://tetsunomichi.gr.jp/tales-about-tatara/princess-mononoke/

♣ 「鉄の歴史村」事業(鉄の歴史村地域振興事業団)

島根県雲南市吉田町吉田892番地1 http://www.tetsunorekishimura.or.jp/about

  島根県飯石郡吉田村菅谷には、現在でも国が保存する日本唯一の高殿式の「たたら」や、たたら師の子孫が生存する居住空間が存在しているが、これは他に類をみない優れた和鋼、和鉄を生産した施設として貴重であるとして重要民俗資料に指定されている。現在このような有形・無形の文化遺産を保護継承するために設立されたのが「鉄の歴史村」。主たる事業は、鉄にかかわる史資料を正しく蒐集保存し、公開していくことを目的に数々の事業を行っている。この中核事業が上記3つの博物館施設であるが、そのほかに、たたらに関する調査研究、鉄の研究家・窪田藏郎市の「窪田文庫」、たたらを実践する「たたら操業」事業などを行っている。現在では、鉄の歴史村フォーラムの開催、和鋼生産研究開発施設での「近代ささら操業」の実践、鉄の歴史村ものづくり大学、地域との連携・協力事業、たたら文化発信事業、“神々の国しまねの観光誘客”などの多様な活動が行われていた。

◎ その他の関連機関、事業としては次のようなものがあるようだ。

(了)

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