―東京・江戸橋の歴史を辿り三菱の倉庫事業のルーツを探るー

一階に歴史展示ギャラリー

今年6月のある日、歴史的建造物となっている江戸橋の三菱倉庫本館に開設された「江戸橋歴史展示ギャラリー」を見学してきた。このギャラリーは、東京日本橋・江戸橋の町の歴史、倉庫業の成り立ち、三菱倉庫の歴史を資料と写真など興味深い展示を行っていて訪問者も多いようだ。日本橋周辺は昔から水運が盛んな地として知られ、船荷がここに荷揚げされ江戸市中(東京)に運ばれる物流の中心であった。幕末から明治にかけて海運で事業を拡大した三菱は、この川筋江戸橋に荷捌き場を設け船荷を扱う事業を開始、これが基となり金融・倉庫業を発展させていった。

明治中期になると江戸橋付近は煉瓦造りの倉庫群が並び物流の中心となって発展する。その後、三菱は更なる事業拡大のため、この地に三菱江戸橋倉庫ビルを新たに建築し近代物流のシンボルとなる。この建物は2014年に高層ビルに建て替えられ「日本橋ダイアビル」となったが、低階部分は元のままの外観を保ち歴史的建造物となっている。こういった経緯から、一階部分を展はギャラリーとし、日本橋界隈の情緒と近代物流の歴史を示す施設となっている。近くには日本の郵便発祥の記念碑もあり、明治以降の産業発展を見る上で重要な情報提供の場である。
今回の訪問記は、このギャラリーの展示内容を紹介すると共に、日本橋・江戸橋周辺の産業・金融、物流の歴史、近代倉庫業の発展、三菱倉庫の事業展開を追ってみたものである。
♣ 簡単な「歴史展示ギャラリー」の展示紹介


日本橋郵便局に隣接する一角には2014年に建て替えられた「三菱倉庫本店」日本橋ダイヤビルがみえる。この一階フロア部分を旧館の歴史的外観と共に生かして「日本橋歴史展示ギャラリー」が開設された。広いフロアの一部は区切って展示コーナーになっていて、明治時代の菱倉庫の江戸橋蔵の模型(“七つ蔵”)、旧三菱倉庫ビルと現代のダイヤビルの模型が並び、江戸から現在に足る日本橋の産業・物流発展を解説する展示パネルが壁面に飾られている。その脇には、倉庫業の展開を示す証書類と三菱の歴史年表、ポスターなども陳列されている。また、旧館当時使われた金庫の大きな扉がそのまま残されていた。フロア全体がパブリックスペースになっていて、中に誰でも引くことのできるクラシックピアノが置かれるなど多目的に使われているようだ。歴史的建造物の内部をこのような形で生かしているのには感心させられる。以下に展示物の幾つかを掲載しておく。

左は、展示ギャライーに展示された三菱倉庫の創業とその後の発展を示す壁面パネル。
左には江戸時代から盛んになりつつある日本橋界隈の荷さばきや物流の有様を示す写真、絵画、説明が書きが記されている。
下は、江戸橋の倉庫のはじまりを示す模型、三菱倉庫(当時三菱商会)の発展の契機となった江戸橋に築かれた「7つ蔵」の模型と三代目歌川広重の描いた錦絵「江戸橋三菱の荷蔵」





1930年代の発展を示す三菱倉庫の江戸橋ビル。
年々、物流の増加している様子が見て取れる。近代的倉庫建築はこれに対応したもの
♣ 展示などからみえる三菱倉庫の歴史と発展
(三菱グループの誕生と倉庫業)


よく知られるように、三菱財閥の創始者岩崎弥太郎は、明治初年、「九十九商会」そして「三菱商会」を創設して海運事業を展開、台湾出兵や西南戦争の軍事輸送で財をなし発展する。74年には社を東京・茅場町に移し、政府から江戸橋の土地を賃借して船荷扱いを開始、また、「三菱為替店」、1887年には「東京倉庫」を創設して倉庫証券による倉庫事業を展開している。当時、日本は産業の勃興期にあり、各地で物資の売買、信用、保管が重要な産業として浮上していた。

明治に生まれた財閥企業グループも多くが物流倉庫を設けビジネスをはじめている。渋沢は深川に「澁澤倉庫部」を創業、住友は「住友本店倉庫部」を開設、三井も「東神倉庫」を相次いで開業している。こういったなか、三菱は江戸橋に7棟の煉瓦づくりの「七ツ蔵」倉庫を作り、全国からの物産を船で東京に運び、艀などで日本橋川を遡り市内に届けている。ちなみに、「隅田川風物図巻」には、日本橋川の川岸に三菱など倉庫が建ち並ぶ様子が描かれている。一方、日本橋周辺では73年に「第一国立銀行」、78年「東京株式取引所」、82年「日本銀行」が創設され「金融の街」へと変化していく。
(関東大震災後の三菱倉庫・物流事業の展開)


三菱は、こういった中さらに物流事業を拡大、1918年には商号も現在の「三菱倉庫株式会社」となってビジネスの幅を広げていった。しかし、1923年に発生した関東大震災によって大打撃を受ける。日本郵船とともに使用していた「七つ蔵」も火災で焼失する被害を受け、東京、横浜で運営していた倉庫の9割以上も被災してしまう。この教訓を重く受け止めた三菱倉庫は倉庫事業の近代化に着手、物流事業の多様化と共にすべての倉庫を鉄筋コンクリート造のものに建替え、1930年には日本橋に「江戸橋倉庫ビル」を竣工させている。この江戸橋倉庫ビルは屋上には船の船橋を模した塔屋をもつ特徴的なもので、窓には半円形のバルコニーも添えられた優美なビルであった。また、1931年には日本最初のトランクルームサービスを開始している。
(戦後の三菱倉庫の発展―物流革命とグローバル化への対応)


その後、1935年には倉庫業法が公布され、倉庫証券は発行許可制となり、戦時体制に入って倉庫業も他の業種と同様、徐々に国家統制の中に組み込まれていく。そして、戦災、占領下で倉庫業も大きな打撃を受けるが、1960年代からの高度成長期を経て新たな展開を見せる。時代の変化を受け、運送手段ではモータリゼーションが進み、物流は海上輸送からトラック輸送が主流になる。貨物の積み下ろしはフォークリフト方式、海上輸送でもコンテナ船の普及などコンテナによる一貫輸送と物流革命が進行していった。こういった中、倉庫業の業態もコンピュータによる保管管理の近代化、物流のグローバル化による国際的な展開、不動産業と一体となった貸しビル事業の拡大へと進んでいった。三菱倉庫でも、海外に支店ネットワークを築くと共に、1963年には東京深川にコンピュータ用の倉庫・住宅複合ビル建設、1973年に東京新川にコンピュータ専用賃貸ビル「東京ダイヤビルディング」を建設、1999年には冷蔵倉庫も導入している。戦後、三菱は単なる倉庫保管業から一大物流・不動産管理会社へと転身している様子がわかる。
♣ 新三菱倉庫江戸橋ビルの展開と日本橋歴史ギャラリー


こういった三菱倉庫の発展の象徴として建設されたのが、2014年に竣功した高層の複合ビル「日本橋ダイヤビルディング」である。このダイヤビルは、地上18階地下1階のフロアのうち2階から6階が三菱倉庫の本店事務所とトランクルーム、他は貸事務所なっている。全体は旧江戸橋倉庫ビルの歴史的外観を生かしながら高層部分も調和させた新しい姿でお目見えしている。日本橋の今昔を示す風情を残すランドマークとしても知られる。その歴史を辿れば、かつて三代広重が「古今東京名所」で描いた煉瓦造りの「三菱の荷蔵」は、大正12年(1923)で焼け落ちたため、昭和5年(1930)に、耐震耐火に優れた鉄筋コンクリート造(一部フラットスラブ構造)の近代的都市倉庫「江戸橋倉庫ビル」(地下1階・地上6階建)に建て替えられた。船体を思わせる個性的なもので、完成から約80年間、日本橋川の景観となっていた。そして、2014年、現在の「日本橋ダイヤビルディング」に建て替えられたたが、元の姿をとどめ今でも日本橋・江戸橋と顔として愛されている。今回、一階部分を公開し、東京都中央区の日本橋を代表する「まちかど展示室・歴史ギャラリー」に指定されたのも自然の流れであったろう。
♣ 日本橋、江戸橋川沿いの街づくりの昔と今
(江戸時代の日本橋界隈の風景)


日本橋周辺の発展は、江戸初期、「平川」などの河川の付け替えや運河の造成などにより、「日本橋川」沿岸を陸運・水運の交通・物流の要衝、また、「五街道」の起点として発展させるため1603(慶長8)年、「日本橋」が架けられた。その後、水運に便利な川・運河沿いの土地は、各地からの荷物の陸揚げ、商人の「米」「塩」、「魚」などの市場として発展をとげる。『江戸名所図会』には活気を見せた日本橋の「魚河岸」が描かれている。また、交通の要衝であった日本橋は、問屋街としても発展、本町を中心に薬種問屋、木綿・呉服問屋などが並び、「伊勢商人」「近江商人」なども進出、日本橋は商人の町としても発展していく。松坂の「越後屋」などはこの代表である。また、現在でも店を置く、鰹節専門店「にんべん」、「山本海苔店」、「木津和紙」なども、この頃からの創業である。
(明治期の日本橋界隈)


明治期になると“日本橋”は、橋が太鼓橋から平らな路面の西洋式架け替えられ、馬車・人力車に対応、車道と歩道も分けられて銀座と共に近代化する商業都市の顔となっていく。そして、江戸期にあった日本橋川筋の両岸にあった蔵地・河岸は、新たに商業・金融の中心地としての役割を担うことになる。郵便発祥の地となった「日本橋郵便局」、「第一国立銀行」、兜町に設立された「東京株式取引所」などがそれである。 この日本橋区域が大きな変化を遂げるのは「関東大震災」後である。明治期以降も日本橋の「魚河岸」などはまだ市場としては賑わいを見せていたが、震災後に築地へ移されると付近はオフィスビル、銀行、商業施設、百貨店などが立ち並ぶエリアと変貌していく。この中で建設されたものの一つが三菱倉庫の建物であった。
(戦後における日本橋エリアの変貌)


そして、太平洋戦争を経て「東京大空襲」による火災で一帯は大きな被害に遭った。しかし、戦災復興期の露店整理を経て経済の高度成長で再び日本橋地域は日本を代表する商業地・オフィス街を形成していく。こういった中、1964年の東京オリンピック開催にあわせて首都高速道路で「日本橋」の上空が覆われ景観が損なわれたことは大きな損失となった。そして、80年代から90年代のバブル経済の収束と不況は地域にも大きな影響を与えることとなる。なかんずく1998年の「東急日本橋店」の閉店は、日本橋の商業地として魅力を大きく後退させたという。こうした状況を憂えた日本橋の住民や企業は、日本橋の現状に危機感を抱き、かつての繁栄を取り戻すべく、地域一体となって「日本橋再生計画」への取り組みが始まる。
(ビジネス・文化の発信地として活性化を図る日本橋)


2004年「東急」の跡地に新しい商業施設「COREDO日本橋はその発展の一つの姿であろう。現在、かつての賑わいを取り戻すために、日本橋全体が街の活性化させる取り組み、清掃活動から集客や情報発信を目的としたイベントまで、さまざまな活性化施策がスタートした。コンセプトは、「残す」「蘇らせる」「創っていく」であるという。この下で、景観を保持しての新施設、商業施設の建設、日本橋船着場の再生、神社などの改修、祭りの復活、そして、COREDO室町1、2、3(2010 年~)などの建設も大きな活性化事業として取り組まれた。三越や高島屋のリノベーション、三井銀行周辺の開発も進んでいる。三菱倉庫の「日本橋ダイアビル」建設(2014年)、「日本橋ギャラリー」開設も一つに挙げられるであろう。次の段階への街全体の大きな市街地再発事業「首都高の地下化と日本橋市街地再開発事業」が現在進行中となっている。この内容については、「日本橋川沿いエリアのまちづくりビジョン」(中央区、2021年)に詳しく述べられている。今後、どのような日本橋景観が生まれるのか楽しみである。

♥ あとがき ー日本橋、江戸橋界隈の歴史と新しい挑戦の姿ー


見学を終え、三菱倉庫の日本橋ダイアビルの「歴史ギャライー」外にを出ると、すぐ前に工事現場が広がっていた。 首都高の地下化と日本橋市街地再開発事業の工事が早くも開始されていたのである。現在、高速道路でふさがれている日本橋の空を取り戻そうとの計画もこの中に含まれている。ビジネス中心としての日本橋をさらに発展させつつ、かつての水辺の風情と賑わいを取り戻そうとする一大プロジェクトは既に始まっているとの印象を受けた。現在、日本橋1丁目、室町地区周囲などでは建設が急ピッチで進められ周囲は一変しつつある。2027年には、広い緑地帯を抱えた287メートルの高層総合商業も完成する予定であるという。「まちづくりビジョン」に掲げられた日本橋エリア全体の新しい姿が出現するのは2030年代のことだというが、長い期間をかけての再生、発展の試みである。工事場の外には将来の日本橋界隈の姿が写真に掲げられていたが、近代的なビジネスと文化が融合する川沿いの風情にあふれた日本橋の姿が写っていて非常に興味深かった。
「日本橋川沿いエリアのまちづくりビジョン」(中央区、2021年)


(了)