岩淵水門と知水資料館で荒川の水防を学ぶ

―「荒川放水路の建設」からみた首都圏治水の歴史

訪問時の荒川知水資料館の外観

 晩秋の11月、荒川の岩淵水門と近くにある荒川知水資料館を訪ねてみた。岩淵水門は荒川と隅田川を仕切る水門で、下流域の洪水を防ぐため荒川放水路(現在の荒川)の基点に設置されている。この水門と放水路の建設は、明治以降における首都圏の治水工事技術の記念碑とも目されている。特に岩淵水門「赤水門」は東京都の歴史的建造物二歩指定されている。現在、水門のある中之島エリア周辺は水門公園となっており行楽に訪れる人も多い。この一角にあるのが荒川下流河川事務所の「荒川知水資料館」Amoaである。

荒川放水路の概念地図
岩淵水門(赤水門)

資料館では荒川河川の概要や生態、荒川域の洪水防止と治水対策、困難を極めた荒川放水路建設の経過と歴史、首都水害の歴史と対策、今後の治水のあり方を、写真、映像、地図、模型などで詳しく展示解説を行っている。自然の恵みの源泉である川、時には災害をもたらす川、これをいかに人が活用し制御してきたか学ぶにはよい機会であった。今回、水門史跡と知水資料館展示を参考にしつつ、東京の河川と災害、荒川治水の歴史と今後について考えてみた。

★ 荒川知水資料館 AMOA
  住所 〒115-0042 東京都北区志茂 5-41-1
  電話番号 03-3902-2271

♣ 荒川知水資料館の展示と岩淵水門の概要

 まず、荒川治水資料館の概要と岩淵水門の歴史をみてみよう。

<荒川治水資料館の展示内容>

フロア床にある荒川水系航空写真

 「荒川知水資料館」(通称アモア)は、国土交通省荒川下流事務所の施設として、1998年に誕生。荒川流域の歴史や自然環境、洪水・水害の歴史、荒川放水路の役割、荒川流域の治水と水害対策のあり方について広く知ってもらうため設立された。1階の展示コーナーは、荒川の流域概要と自然環境を紹介、フロアーには大きな荒川流域航空写真が目をひく。2階の展示は荒川の洪水と防災対策がテーマ、荒川放水路建設の経過と歴史、放水路の役割と効果、今後の防災のあり方が地図や写真で丁寧に解説されている。特に、放水路建設に貢献した技術者達の紹介と建設の労苦を示すパネル、ジオラマなどが印象的である。また、荒川で洪水が起きたときの浸水シュミレーションの映像はリアルであった。3階には流水模型があり、荒川閘門の仕組み、水の動き、水門の役割を実感できるコーナーも設置されており、見学者は水門の開閉とその効果などを理解できる。屋外から眺められる荒川河岸と岩淵水門の景観もすばらしく見学者を楽しませてくれる。

工事の進行を示す展示     左に当時使われたトロッコの実部が見える)
開削工事のジオラマ展示

工事に貢献した技術者達
岩淵水門付近の流路模型
荒川水系の展示地図

<史跡岩淵水門の歴史と概要>

赤水門と青水門の景観
荒川放水路の概念図

  岩淵水門は荒川と隅田川を仕切る赤色の水門(赤水門)と青色の水門(青水門)の二つからなっている。前者は1924年に荒川放水路建設と同時建設されたもので、現在は既に運用を終えている。もう一方の青水門は、1982年に竣功し現在も稼働中である。両水門は、荒川上流からの流量が増えた場合閉め切られ、隅田川への流れを調節し、下流の洪水を防ぐため設けられたもの。旧水門の赤水門は建設後地盤沈下などの影響で現在機能を停止したが、歴史的な河川土木建築物として東京歴史建造物に指定され現在も威容を誇っている。水門のゲート上を歩いてみたが、その堅牢さは見事に保たれていた。赤水門に替わって建設された現在の岩淵青水門は1972年に着工1982年に完成したもので、10メートル幅のゲート三枚から構成されている。水門は、200年に一回の大洪水にも耐えられるように造られているという。重さはゲート一枚当たり214トン、1500トンの水圧にも耐えられる設計となっている。川幅をまたいで屹立する二つの水門の偉容は圧巻で、これまで多くの洪水被害を防いできた歴史を感じさせる。

♣ 荒川と隅田川における治水の歴史

 知水資料館には、荒川の全貌と開発の歴史について豊富に展示がなされている。これをみると、江戸時代以前からの利根川、荒川の水利・治水、都市造りの歴史が浮かび上がってくる。

<荒川の歴史と荒川放水路の建設>

江戸時代の利根川

 荒川は、奥秩父の甲武信ヶ岳に源を発し周辺の水流を集めながら南下、関東平野を経て東京湾に注ぐ大河川である。かつては利根川の支流でもあったが、江戸時代、利根川の「東遷」工事によって分離、隅田川となってそのまま東京湾に達するようになった。岩淵水門完成後、この水門以南はかつて「荒川放水路」と呼ばれていたが、現在は全体を通して単に荒川の名称になっている。

荒川下流河川事務所の図より作成
江戸の「利根川東遷」図

 この河川の変遷は、江戸・東京の都市建設の歴史そのものといってよく、歴史的に非常に興味深いものがある。 まず、17世紀の「利根川東遷」。徳川家康が江戸に幕府を開くに当たって、最初に取り組んだのが江戸湾の埋め立て工事と利根川流路変え、銚子沖の太平洋に直接注ぐ工事であった。また、同時に、古荒川(現在の隅田川流路にあたる)を西に移動する「荒川西遷」工事も行われた。

「西遷」後の荒川と日本堤
日本堤の錦絵

  
  これにより利用不能な湿地帯であった江戸域全体が乾いた陸地に変えられ、そこに運河を建設することで水運に富んだ商業と行政の大江戸市街が造られることになった。しかし、江戸の町が大きく発展するに従い、荒川水域の洪水、災害も次第に増え、その対策も必須となってくる。江戸時代の「日本堤」墨田堤建設、各種の河岸工事に、その跡を見ることができる。そして、江戸から明治に移り、都市化、工業化が進むにつれ、荒川の治水対策はさらに強化が求められることとなる。この最も大規模なものが「荒川放水路」の建設であった。

<明治の治水事業と荒川放水路の開削>

明治43年の大洪水の様子

 明治になると、産業発展などの結果、それまで農地であった土地が工場や住宅地に変化し、人口増加と共に市街地拡大が顕著になっていく。特に、荒川下流(現代の隅田川)低地には工場、住居が集中して都市化が進んでいった。この地域は、江戸時代にも頻繁に洪水が発生していたが、明治時代になるとより多くの洪水被害が発生するようになる。明治初年から末までに広範囲の大洪水が10回以上発生していたという。中でも、明治43年の洪水は甚大な被害をもたらした。この大洪水を契機として、政府は、荒川の対応能力を向上させ洪水を根本的に防止するため「荒川放水路」の建設を決定する。放水路の開削工事は明治44年(1911)に着手されたが、完成まで20年近くかかる大変な難工事であった。この建設工事の概要と経過については、知水資料館の展示に余すことなく記されている。この展開を展示に基づき簡単に紹介してみる。

<困難だった荒川放水路建設工事の概要>

荒川放水路の概念図

 荒川放水路は、荒川中流の岩淵付近で水門によって隅田川を分離、新たに河川を開削して江東・江戸川の区境の中川河口から東京湾に流入させようとするものだった。当初、四つのルートで検討されたが、最終的に人口密度が少なく既成の小河川も活用した現在の流路に決定している。放水路建設は、全長22キロ、広いところで幅約500メートル、工事は1911年から完成まで20年かかった難工事であった。この開削により移転させられた住居は1300世帯、総数300万人以上の人員が建設工事に動員され、出水や土砂崩れなど多くの災害によち30名近くの犠牲者も生んだという世紀の難事業となっている。工事の大半は手作業で行われていたようで、簡単な蒸気掘削機やトロッコ、浚渫船が使用されたものの、現在のような大きな動力重機は存在しない中で進められた工事は困難を極めた。関東大震災による工事の中断も難工事に拍車をかけたという。一方、1916年に着工した放水路開閉の要である水門(赤水門)も1924年にようやく完成し、同年10月に荒川放水路に通水が開始されている。しかし、その後、赤水門については、完成以降周辺の地盤沈下や老朽化が進んだため、新水門(青水門)が建設されることになり、1974年、その役割を譲っている。この経過と概要は、館内展示のパネル、模型などに詳しい。

工事の進展を示すパネル
トロッコの実物展示

<工事に関わった技術者達の貢献>

青山士
荒川放水路建設に貢献した技術者の展示

 知水資料館には、この荒川放水路の建設に貢献した技術者達の功績についても詳しく解説展示している。主な技術者として紹介されているのは、荒川放水路を計画した原田貞介、工事を直接指揮した青山士である。原田は内務省技官、青山はパナマ運河建設工事に関わった土木技術者として知られる。そのほか、浅野忠雄、宮本武之輔などの名前も挙げられている。勿論、この開削、水門建設に関わった多くの中堅技術者、工事関係者の存在も忘れてならないだろう。館内の工事経過を示すジオラマ、模型、パネル写真はそのことをよく伝えている。

♣ 荒川放水路が果たしてきた役割と効果

 荒川知水資料館では、荒川放水路の役割とその効果について、特に力を入れて解説展示している。これを詳しくみてみよう。

<荒川放水路の役割と隅田川>

 当初、荒川放水路の洪水の流量(計画流量)は、岩淵地点において毎秒3,340m3で新放水路方面に流下させ、隅田川には堤防がなくても洪水が氾濫しないことが前提となっていた。しかし、昭和初期には、何度も計画高水流量を上回る事態も発生して関係者を悩ませている。このため、完成以降何度も改修が行われ、土砂により水深が浅くなることを防ぎ、護岸を強化して保水量を高める努力が続けられた。荒川放水路が、その機能を十分に発揮できるまでには長く時間が必要だったのである。

岩淵水門付近の平常時と洪水時の比較(平成11)河川事務所資料より


 この結果、放水路完成以降今日まで、隅田川の下流での大規模な洪水災害は発生していない。知水資料館では、この放水路の効果について「荒川放水路がなかったら」のシミュレーションを行い、昭和22年のカスリーン台風、平成19年の巨大台風の例をあげて解説している。これをみると、荒川放水路の建設とその後の改修工事が、いかに大きな役割を果たしてきたかを確認できる。

 まず、1942年のカスリーン台風の例では、下図のように、隅田川畔を中心に極めて広範囲の地域が浸水し、住宅地と多くの工場が甚大な被害を受けていたことがわかる。 また、広範囲の浸水が東京に発生すると思われた台風19号(2007)では、鉄道や主要駅も浸水し、多数の避難民や帰宅困難者の発生を想定している。阪神・淡路大震災や東日本大震災に匹敵する物的人的損害が発生しても不思議でなかったのである。

1947年のカスリーン台風来襲時の浸水
2007年の風9号の洪水時の浸水

<荒川放水路後の市街地形成と地盤沈下対策>

地盤地下などによるゼロメートル地帯の拡大
荒川。隅田川周辺の高まる人口密度

 知水資料館では、放水路完成後の荒川・隅田川岸地域の市街地拡大、人口増加、工場建設増大、これによる地盤沈下と洪水対策についても触れている。 荒川放水路事業の伸展に伴って、周辺は徐々に農村から人口密度の高い市街地に変貌していった様子が展示で示されている。特に、荒川、隅田、中川流域は水運を利用した工場の進出が盛んになり工業化、市街化が一段と進んだ。この結果が過剰な地下水汲み上げによる地盤沈下である。特に、戦後の高度経済成長がこれを加速化させた。そして、地盤が沈下することで、江東地区を中心に海抜ゼロメートル地域が拡大、防災に必要な河川堤防の高さも不十分となり、高潮被害の可能性も指摘されるようになった。この状況を受け更なる荒川域河川、隅田川の拡幅、改修、高潮堤防の建設が必要となって継続的な事業が推進されている。

整備された高潮対策
荒川の防潮堤防

♣ 現在の荒川放水路と防災対策

荒川堤防付近の「虹の広場」公園

 これら永年に渡る持続的な維持改修、河川管理によって、荒川放水路(現在は‘荒川‘が正式名称)完成から80余年、堤防は一度も決壊することなく、現在まで大洪水は避けられてきた。まさに世紀の大工事が功を奏してきたといえるだろう。しかし、今後に向かって首都大地震も発生も懸念される中、さらなる堤防の整備、浚渫や川幅拡幅、河川構造物の耐震化、高規格堤防建設が求められる時代となっている。
 また同時に、新たな試みとして、広大な河川敷を利用した「河川公園」の整備、災害時の情報ネットワーク形成、地域との連携も必要とする現在となっている。これらは河川改修事業は荒川河川事務所、東京都を中心として着々と進められてはいるが、荒川放水路改修を単なる水害防御にとどめることなく、河川の積極的な活用を進めて、水運、リクレーション、地域交流の場として広げていくことが求められているといえよう。このことを荒川知水資料館は教えているように思えた。

♥ 訪問のあとで

水門近くのバーベキュー広場
岩淵水門近くの堤防河川敷

 岩淵水門と荒川知水資料館には、今年夏、水資源・環境学会のツアーに参加させていただいて一度訪問している。このときは時間が少なかったため、残念ながら水門周辺を歩いたり資料館の展示を十分に見ることができなかった。しかし、荒川の自然や放水路建設の展示や資料をみるにつけ、水路建設という大事業のありよう、荒川の自然と歴史に再度触れてみたいと今回の訪問となった。改めて考えてみると荒川開発の歴史は、そのまま江戸・東京の都市造りと発展、水害回避と河川利用、産業・生活様式のあり方と直接結びついている。このことが再度の訪問でよく理解できた。 特に、放水路建設に関わる難事と労苦、結果として生まれた大きな役割と功績、エンジニア達の挑戦、今後の河川管理・防災のあり方などは非常に示唆に富むものであった。今まで首都圏河川のことについて深く考えることがなかっただけに大きな勉強になった。 岩淵水門周辺の河川敷と堤防域は、放水路完成から80年、今は静かな川面と緑にあふれ広々とした河川公園になり、人々が自然を楽しむ行楽とレクレーションの場になっている。治水資料館も、この中自然環境の中に溶け込むように設置されていて、荒川の自然と人間活動の調和をどのように図っていくかを伝えているように思えた。

(了)

参考とした資料:

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