深谷の「渋沢栄一記念館」と渋沢の生家を訪ねる

―渋沢栄一の思想ルーツと功績をたどる深谷の記録ー

渋沢栄一記念館の外観

 埼玉県深谷に行く機会があり、1995年に開館された「渋沢栄一記念館」、そして、渋沢の生家である「中の家」を訪ねてきた。渋沢については既に多くの施設や記念館があり、その活動は広く知られている。しかし、一昨年にNHKの大河ドラマが放映され、2024年には新紙幣の肖像が渋沢に決まってから一種のブームとなり、深谷の記念館も有力観光スポットとして多くの訪問者が訪れる施設となっている。

記念館の展示室

 展示資料の充実度では東京・王子にある「渋沢史料館」には及ばないが、地元深谷との関わり、富岡製糸場、青年時代の思想形成、家族などについては特徴のある展示を行っている。また、生家「中の家」、従兄弟の「旧尾高淳忠邸」は、藍や養蚕などの商品作物が盛んな深谷農家で育ち、後の活動基盤となった渋沢の多感な青年期を浮かび上がらせる興味深い史跡であった。この訪問を機会に、記念館に示された渋沢の活動、深谷との関係、青年時代と歴史背景、深谷地方の産業と現在について触れてみることにした。

♣ 渋沢記念館の内容と特色

渋沢栄一
 記念館の展示① 藍玉の出来高ランク「武州自慢鑑 “藍玉”力競」(中央)と渋沢に論語を教えた尾高惇忠の肖像がみえる

 渋沢栄一の人となりは、2021年にNHKの大河ドラマ「青天をつけ」で広く知られることとなった。記念館ではこれを背景に、実業家としての出発点のなった血洗島での生活を中心に、実業家としての人格形成、幕末の政治活動の様子を文書や写真で詳しく伝えている。また、ヨーロッパでの体験、実業界への転身、広範な銀行や民間企業の創設と貢献はとみに評価されるところだが、彼の国際親善、社会福祉活動への参画の内容ついても年譜、自筆の文書手紙などで丁寧に展示がなされている。

記念館の展示② 惇忠がしたためた天下を語る「神託」、徳川慶喜の書やフランス随行時の栄一の貴重な写真がみえる

 残念ながら館内は撮影禁止で紹介することは出来なかったが、これらの活動の様子は他の資料でも参照可能である。また、この記念館では、アンドロイドで肉声や仕草が再現されていて、訪問者には好評のようであった。ただ、記念館は地域の公民館と併設されていて資料展示場は建物一部でしかない。私の印象では、エンドロイドの渋沢講義や建物の概観、入口に屹立する渋沢の巨大な立像は、印象としてはやや観光客目当ての過剰演出になっている点は否めなかった。

<実業家の出発点となった少年時代> 

深谷での藍玉作りを学ぶ栄一 (city.fukaya.saitama.jp)
青年時代の栄一

 渋沢の生家は、農作物、養蚕のほかに藍玉を製造し手広く事業を営んでいた。資料によれば、少年時代をここで過ごした栄一は、親の手助けをするうちに自然に商売感覚を身につけ、その後の実業界での活躍の基礎感覚を養っていたとされる。この経験が、幕末フランス万国博随員として参加して西欧の先進的な金融の仕組みに触れ、その仕組みがよく理解できたと想像される。後に、これが日本最初の経済団体「商法会所」設立につながっていくのであるが、記念館では、この経過と状況を、渋沢の成長過程として解説している。

<富岡製糸場創設への貢献>  

富岡製糸所を訪ねる渋沢 (中央左)とフランス技師ブリュナ
富岡製糸場の正面概観

 明治初めの大蔵省での活躍、多くの銀行設立、民間会社の創設についての渋沢の貢献についてはよく知られているが、記念館では、明治初期、日本の貿易振興に貢献した官営工場「富岡製糸場」に創設に関わった渋沢の活動について特に詳しく紹介している。渋沢は大隈の要請により大蔵省に出仕した後、官営工場設立担当主任として、深谷の田島武平、尾崎淳忠などと協力、仏人ポール・ブリュナを技術指導者として招き、明治5年に洋式の繰糸器械を備えた官営模範工場富岡製糸場を創設させた。同製糸場は、日本近代化の象徴とされ2015年には世界産業遺産にも登録されている。

<晩年の社会福祉活動への貢献> 

養育院の碑
日米親善人形歓迎会で米国の人形を抱えてほほえむ渋沢

 渋沢は実業家として近代産業の発展に尽くしたが、後年、国際親善や社会福祉活動、教育活動にも大きく貢献した。記念館では、この渋沢の社会活動の紹介には特に力を注いで展示を行っている。特に、生活困窮者救済の「(東京)養育院」の設立、商法講習所、女子教育推進のための「日本女子大学校」の創立に関わり、国際親善では、日米協会や日本国際児童親善会成立にも尽力している。記念館には、設立に関わった団体の写真のほか、日米親善人形歓迎会での人形と共に渋沢の笑顔が展示されているのが目立った。これら福祉・社会活動への貢献の基礎は、深谷で育まれた少年時代の社会観、人生哲学にあるとの評価がなされている。渋沢の実業だけでない広範な社会活動の様子がよく示されているところだ。

養育院の様子
商法講習所(一橋大の前身)
東京女子大の卒業式(大正10年頃)前列に成瀬、渋沢、大隈の姿

♣ 生家「中の家」にみる渋沢の少年時代と家族、思想形成

渋沢邸「中の家」主屋の概観

 渋沢記念館から15分ほど川縁の道を歩いたところに渋沢が生まれ育った「中の家」(なかんち)がある。主屋を囲んで副家、土蔵、長屋門がある典型的な養蚕農家のたたずまいである。この母屋は明治25年に火災にあって建て替えられたものであるが、ここに長く妹夫妻が居住していた。そして、昭和60年(1985)に、長女歌子の設立した「青淵塾渋沢国際学園」の学校施設となり多くの外国人留学生が学ぶ施設となった。その後、学校が閉鎖されたのを機会に、深谷市所有となり、同時に指定史跡となる。しかし、「中の家」は建築から120年が経ちて老朽化が目立ったため、基金を募って改修工事が行われこととなった。これが、今年2023年にようやく完成し、主屋内部を展示公開する運びとなっている。この「中の家」は、深谷地方の先進農家渋沢家の雰囲気がよく保たれていて、当時の渋沢家家族の生活の様子が偲ばれる内容となっている。また、栄一が帰郷の際に滞在した上座敷や当時蚕室として使用された場所、日本庭園なども見学できる。改修工事の際、主屋の床下から新たな遺構が複数発見された「煉瓦製カマド跡」もみられ史料価値も高い。

栄一が帰郷の際使用の居間
大河ドラマのセット展示
煉瓦製カマドの跡」

中の家の長屋門
中の家の渋沢蔵と内庭

<アンドロイドの栄一シアター> 

アンドロイドの栄一シアター

 珍しいのは、青淵学園時代に使われていた北側の部分に「渋沢栄一アンドロイド・シアター」といったスペースが設けられたことであろう。 そこでは、80歳の渋沢栄一を模したアンドロイドが、自身の少年時代を語り、同胞、家族たちとの思い出、パリ滞在時での出来事などを手振り身振りが交えながら話す仕組みになっている。非常によく出来た装置とシナリオであると訪問者の人気を呼んでいる。また、NHKの大河ドラマ「青天をつく」の劇中を再現したセットや撮影で使用された衣装、小道具なども展示されていた。

<歴史遺産となった旧尾高淳忠邸>

 渋沢記念館から、やはり2キロほどのところに、栄一の年上の従兄弟尾高淳忠(号は藍香)の住んでいた屋敷がある。この家は、江戸時代後期に惇忠の曽祖父が建てたものといわれ、この地方の農商家の趣を残す貴重な建造物となっている。栄一は少年時代からこの家に通い、淳忠から論語をはじめ多くの書を学んだという。淳忠は、学術に優れ、“知行合一”を旨とする人生哲学を唱え少年栄一に大きな影響を与えたといわれる。幕末、栄一が仲間と共に天下の状況を憂い、尊皇攘夷を決意して高崎城乗っ取りなどの計画を謀議したのもこの家であったという。

淳忠宅内庭にある土蔵
淳忠宅に展示の藍玉

 また、淳忠は、明治初期、栄一に協力して富岡製糸場の初代工場長や第一国立銀行の盛岡支店長などを務めるなど多くの事業をなした人物である。また、栄一の妻となった「千代」、幕末戦争で戦死した「平九郎」、最初の富岡製糸場伝習工女となった娘「ゆう」は、皆淳忠の家族であり、この生家で一緒に過ごしたことでも知られる。この歴史的な邸宅は、2010年には深谷市の指定文化財に指定され、尾高、渋沢の功績と人脈図を伝える貴重な史跡として多くの訪問者を迎える施設となっている。 また、この生家の建屋は、江戸時代に建てられたままの形で保存されており、内庭にある土蔵は、「上敷免製」の刻印のある煉瓦工場「日本煉瓦」で建てられたものといわれる。

栄一の妻千代
淳忠の娘ゆう
渋沢邸にある平九郎追懐碑

 

♣ 煉瓦と渋沢の街・深谷の歴史  

深谷城址公園の石垣
宿場町の風情を残す街並み

 深谷は、江戸時代から中山道の宿場町、深谷城で知られる歴史の街である。また明治以降、渋沢栄一の努力で生まれた煉瓦産業で大いに繁栄をとげた街でもある。渋沢は、深谷地方で良質の粘土がとれることに着目し、日本で最初の機械式レンガ工場「日本煉瓦製造株式会社」を深谷に誘致したのが初めである。

赤煉瓦のヶ関法務省庁舎

 この「日本煉瓦」でつくられたレンガは、明治から大正時代にかけて、近代的な西洋建築の代表的な建築資材となっていく。歴史的な建造物である司法省(現法務省)、日本銀行、旧東京裁判所、赤坂離宮、旧三菱第2号館、東京大学、東京駅などは、この日本煉瓦製作の煉瓦が使用された。この「日本煉瓦」設立によって当時の深谷は、鉄道の施設、雇用、関連産業発展など大きな経済効果を享受したという。 その後、関東団震災を受けて煉瓦建築はブームを終えるが、煉瓦で建築された幾つもの有力建造物は建築遺産として歴史に長く残ることになる。深谷は、この原点としての土地柄を誇っているといえるだろう。このため深谷市では、様々な煉瓦造りの公共建築物、歴史遺産施設を設けて、“煉瓦の街”深谷を顕彰しようとしている。

<東京駅を模した深谷駅舎と赤煉瓦の市役所>

東京駅をもした瀟洒な深谷駅

 JR深谷駅を降りると、大きな赤煉瓦の近代的な駅舎の存在に驚かされる。これは。東京駅が深谷・日本煉瓦産のレンガが大量に用いている縁から「レンガの街」をアピールする意味を込めて1996年に改築された。明治期に新たな建築材料としてレンガを日本全国に普及させたことを誇るものである。また、2020年には、赤煉瓦の瀟洒な市役所ビルも新たに建設されているのが目立つ。

<煉瓦史料館と旧煉瓦製造施設> 

明治22年頃の煉瓦工場
ホフマン輪窯遺跡
チーゼ

 日本で最初に作られた近代的煉瓦製作工場は、明治20年、操業を開始し明治期の代表的な西洋建築の華を飾った。しかし、明治24年の濃尾地震、大正期の関東大震災によって耐震性の脆弱さが懸念され、鉄筋コンクリート造りに主役の座を譲ることになる。そして、煉瓦製造自体も衰退を余儀なくされる。「日本煉瓦」も、後に太平洋セメントの子会社となり、2006年には自主廃業を決定して生産をやめている。深谷市にあった工場の諸施設は「ホフマン輪窯」「旧事務所」「旧変電室」、専用線であった「備前渠鉄橋」全てが深谷市に移管された。これを受けて、深谷市では、既に重要文化財に指定されていた「ホフマン輪窯」を含めて、日本煉瓦工場全体を歴史建造物「旧煉瓦製造施設」として保全、博物施設「煉瓦史料館」として一般公開することになった。このうち、ホフマン輪窯は特に貴重で日本に4基しか残っていない。 この史料館は特別修理のため現在公開は休止中であるが、工事終了後は新しく見学可能となるので、是非訪ねてみたい施設である。

誠之堂
清風亭

 また、渋沢ゆかりの歴史施設としては、「誠之堂」「清風亭」の2つの建物がある。誠之堂は、1916年に渋沢栄一の喜寿を記念、清風亭は第一銀行頭取であった佐々木勇之助の古希を記念して 建設されたもので、1990年に東京都世田谷区から移築された。双方とも国の重要文化財に指定された歴史的建造物である。

♣ 深谷の訪問を終えて

「深谷ネギ」はじめ野菜生産が盛ん

 江戸時代の深谷は、中山道の宿場町として大いに賑わい、明治期には煉瓦製作で大いに潤ったが、昭和以降になると野菜作りや養蚕が盛んな静かな農工業都市に戻っていった。現在、人口は町村合併後も13万人と中規模な市であるが、熊谷や東京への通勤者などもも多い都市型住宅が目立つ街となっている。この中にあって、やはり渋沢栄一の存在感は大きいいようだ。各所に銅像や記念施設が目立ち、市も渋沢の育てた日本煉瓦のモニュメント、史料館など観光客の誘致に熱心である。この代表例が深谷駅の巨大な赤煉瓦駅舎であるとの印象を受けた。 

宿場跡をの深谷シネマはじめ地域活性化の活動
深谷東部工業団地

 一方、かつての街道筋に当たる中心街区の衰退は明らかで、かつて栄えた酒屋や宿所、飲食店などの賑やかな姿を消して空き地が目立っている。近年、街の活性化を目指してNPOが活動をはじめているが効果は未だ見えていない。また、産業誘致のため工業団地の建設なども進めている。一方で、NHKのドラマや新紙幣肖像で知名度を上げた深谷市では、渋沢ゆかりの記念館や史跡をめぐるツアーが近年とみに盛んになっている様子が見える。2024年、新紙幣の一万円札に渋沢の肖像が採用されるのも追い風になるかもしれない。このため、深谷郊外にある渋沢記念館や生家跡には連日観光客が集まり盛況の様子である。深谷市もこれら観光キャンペーンに力を入れている。

渋沢栄一記念館

  確かに、日本の経済近代化に多大な貢献をなした渋沢栄一の功績は偉大といってよく、深谷の記念館や栄一の生家、史跡訪問は、このルーツを知る貴重な施設であることは間違いない。ただ、深谷の「記念館」は、渋沢財団の「渋沢史料館」などと比して観光用の施設として急拵えで作られた観があり不満も残る。生家「中の家」、「尾高淳忠旧宅」の展示や建物内観は、渋沢の多感な青年時代の息吹を伝えるものとして史料価値は高く見応えがあると感じた。また、現在、公開が停止中である「旧日本煉瓦」の史料館は、明治期における日本の建築産業の歴史を語る貴重な博物史料館と思われる。今回、訪問見学の機会は得られなかったが、公開再開後には是非訪れたい施設である。
 ともあれ、静かな農村都市と化しつつある深谷が、渋沢ゆかりの事業や地域おこしの運動を梃子として新たな発展を願うところである。深谷には、それだけの風土文化と歴史伝統があると思われた。

☆ 参考とした資料

(了)

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