日本橋兜町の「東京証券取引所」を探訪

   ー「証券史料ホール」資料からみる東証と兜町の今昔ー

東京証券取引所・東証Arrowsの概観

 今回は渋沢栄一と関係の深い「東京証券取引所」JPXを訪ねてみた。コロナ禍の影響で長く見学は制限されていたが、今年7月、自由見学が可能となったので早速訪問してみた。東証のルーツは、明治初期の「東京株式取引所」、これが戦後、「東京証券取引所」となって今日に至っている。かつて東証の証券売買は、対面の「立会場」方式で行われていたが、今はインターネット売買や電子化取引形態に大きく替わっている。今回、訪問し内部をみたが、取引場は大きなガラスシリンダーで囲まれたマーケット・センター、天井は電光掲示板に替わっていた。

取引状況を記すマーケットセンター

 現在、東証の建物は「東証アローズ」と呼ばれ、証券取引管理と投資家向けの広報、株式情報の提供に特に力を入れているようだ。このためメディア・センター、投資体験センター、東証プラザを設けているほか、見学者には「見学回廊」から取引施設や電子表示を外から見学できるようになっている。また、一階のフロアには「証券史料ホール」があり、明治初年からの貴重な政府公債、株式証券、取引記録などをパネル、写真、実物資料で時代別に見ることができる。今回は、電子化された取引の現場風景、館内の史料ホールなどを見学することで金融証券取引のあり方と市場の歴史、兜町の昔と今を訪ねてみた。以下は、私のみた東京証券取引所、特に、証券史料ホール、証券市場の歴史背景についての概観レビュー。

♣ 東京証券取引所「東証アローズ」の活動

東証の見学受付ラウンジ

 東京証券取引所の前身である東京株式取引所「本館ドーム」は、昭和6(1931)に建設された歴史的建物だが、老朽化したため1988年改築された。その後、1996年には全ての取引を電子システムに移行し、株券売買立会場は閉場される。そして、2000年には立会場跡地を「東証Arrows」として新たな展開を見せた。このアローズは、東京証券所内の情報提供スペースとして設けられたもので、投資家向け、一般向けに取引所の業務内容と取引活動についての情報提供を内容としている。施設としては、取引管理を行う「マーケット・センター」報道機関向けの「メディア・センター」、情報交換の「東証プラザ」、「証券史料ホール」、図書館設備の「インフォメーション・テラス」などがある。 

見学回廊の様子
史料ホール入口

 このうち中核施設である取引場の「マーケット・センター」では、日々行われる株取引が監視しされており、市場の透明性、公平性を保ち、不正が生じないように場内で逐次調査が行われているという。また、壁面には回転する電光掲示版(チッカー)が直近の取引出来高が表示されている。館内には「見学回廊」が用意されていて、東証の歴史を語る写真パネル徒共に、総面ガラスで囲われた取引場の様子を外部から見物できる。また、訪問時には上場開始を告げる「上場の鐘」も置かれていて目を惹いた。

♣ 証券史料ホールの展示 

 ここでは日本の証券市場の歩みと東京証券取引所の歴史示す貴重な史料が年代別に展示されている。明治初期の証券市場の形成期、大正にかかる証券発展期、太平洋戦争までの昭和前期、証券取引所の新展開をみせる戦後期などの展示がみえる。詳しくみてみよう。

<明治初期の貴重な展示史料> 

明治年間の展示コーナー
手会帳

最初に、日本に株式・証券の取引市場が初めて登場した時期の歴史資料が並んでいるのがみえる。中でも、創業時の写真と共に東京株式取引所の創立証書と定款、大日本帝國政府金祿公債、第一国立銀行の株式、取引「手会帳」といったものが貴重である。また、株式取引の様子を示した「東京株式取引書沿革図解巻軸」なども面白い展示であった。

株式取引所創立証書
政府金禄公債
東京株式取引所沿革図解の巻軸
第一国立銀行株券

<大正期の東京株式取引所の展示> 

 1920年代頃からは、第一次世界大戦以降の重化学工業の発展を反映して、一種、株式のブームが到来して電力、鉄道などの社債が拡大している様子が展示でわかる。一方、関東大震災後には復興債権などの発行がみられ時代の変化を感じる。展示では、取引の作業内容を示す電信票、仲買人の半纏、印章のほか、各種債券や株式証書などが多くみられる。

大正期の展示コーナー
台湾製糖株、大同電力株、日本鉄道債券、 第6回震災復興貯蓄債権など(大正15年頃)

  

<戦前昭和期にみえる証券活動の展示>

昭和前期の展示

 当初、新興財閥による株発行が盛んで、市況も活発であったが、満州事変以後、証券市場は戦争を意識した時代になり、重化学工業や軍需産業の資金調達に移行、次第に統制経済に組み込まれていく。国策会社の株発行が続く一方、太平洋戦争開始後は日本証券取引所の下で、戦費調達と財政資金のために巨額の国債が発行され、戦時色の強い市場となった。この時期の展示物としては、南満州鉄道株券、手話電工株券のほか、多数の割増金附報国債券などがみられる。

昭和電工株券(昭和14)
割増金附き戦時報国債券 (昭和15~17)

<戦後期の電子化以前の東証活動の展示> 

GHQのメモ
戦後期の展示コーナー

 戦後の取引は占領下で始まっている。このため証券市場の状況を示す「GHQメモ証券取引3原則」文書が最初に展示されている。そして、戦後改組された「東京証券取引所定款」の展示があり再出発の状況を伝えている。このときの「株式大相撲番附」は珍しい展示物である。一方、この時期、取引が電子化されていく様子が、当時のニュース報道と共に最初に導入された電子計算機機器で確認できる。しかし、史料ホールでの展示は1970年代までとなっていてやや残念であった。なお、今回の訪問時には特別展示形で、渋沢栄一の功績が株式取引所開設至る歴史と共に紹介されていたのが目を惹いたことを付け加えておく。

渋沢栄一の特別展
株式大相撲番付表
電子化を進める東証の記事

 

♣ 史料からみえる金融証券市場の歴史

 ここで、東証史料ホールの史料なども参考に、日本の株式市場、証券取引の歴史を考えてみた。

<日本の証券取引のはじまりは?>

米切手の例
江戸時代の堂島米会所の浮世絵

 日本での証券取引の起源は、江戸時代の「米切手」(一種の米手形)であるとされる。江戸時代を通じて米は経済価値を示す基軸であり、全国から集められた年貢米は「蔵屋敷」に収容され取引された。この中心となったのが大阪の「堂島米会所」、ここで発行されるのが出庫販売許可の米切手であった。当初は、現物取引であったが、次第に「流通証券」としての性格を持つようになり、転売も可能になっていった。ここでは「帳合米取引」という一種の先物取引も行われていた。

東京米商会所

 この堂島米会所の取引方式、信用供与のあり方が、後に証券取引に発展していったとみられている。また、明治初年には、「米商会所条例」が制定され、鎧橋の北岸に誕生した米の取引所、大阪堂島と共に二大市場を形成している。

<明治の東京株式取引所の誕生>

渋沢栄一
「東京株式取引所」の写真
「第一国立銀行」の錦絵

幕末にフランスに派遣されていた渋沢は、欧米の優れた経済システム、特に資金を広く集めて事業を興す「合本主義」に触れ、日本でも、この方式を導入すべきとの考えに至ったとされる。帰国後、この考えを実行すべく駿府に「商法所」を設立、事業を興して成功させている。東京に出て大蔵官僚として活躍した後、当時の民間実業家と共に「第一国立銀行」を創立させる。これらの資本調達に資するため、1878年(明治11年)設立したのが「東京株式取引所」(東株)であった。これが現在の「東京証券取引所」(東証)の前身である。取引所では、当初、主に、地録公債など政府公債であったが、渋沢の第一国立銀行も上場していた。ともあれ日本で最初の「株式取引所」が日本橋兜町に誕生したことになる。これに次いで同時期以降、大阪株式取引所、名古屋株式取引所が開設されている。

<株式投資と証券取引の拡大>

取引で賑う取引所の様子

 明治期に設立された株式会社は、軽工業中品の小規模企業に止まっていたが、第一次世界大戦後にみえる鉄道、資源、重工業などの進展で資本金の大きい大企業が成長し、東株への上場も増え始める。この頃に上場された企業株としては、日本石油、大日本精糖、日本郵船、南満州鉄道などのものがみえる。中でも、東株では鉄道株の取引が多くを占めていたと伝えられている。ともあれ、日本における株式取引と投資が徐々に増えてきている様子が窺えるだろう。

<戦時下の証券取引の推移>

1940年代になると証券市場は大きな変化を余儀なくされ、戦時体制が一気に強化される。、東株、大株を含めすべての取引所は、1943年、新設の「日本証券取引所」に統合され、各取引所の株式は消滅、取引は政府の認める範囲に制限されることとなる。ここに長く続いていた自主的な証券取引の商慣習はおわりをとげることとなった。

<戦後の証券市場の再建と発展への道>

戦後の東京証券取引所の立会場風景

 終戦に伴い取引は停止、「日本証券取引所」も解散され新たな展開が始まることとなる。こういった中、財閥の解体等によって凍結された大量の株式が国民に放出され、取引所制度の改革が強まり、これを受けて強まり、これを受け1947年、には新しい証券取引法が制定される。かくして、1949年、新しく東京証券取引所が誕生したのである。立会開始後、戦前からの銘柄を中心に上場は多数に上ったという。その後、日本経済の徐々に回復するに従い年々株式取引は盛んになりを株価も上昇している。1960年代以降の高度成長期下では、多くの証券会社も設立され、店頭取引(取引所外取引)が急速に拡大するなど本格的な株式投資の時代が到来してきたといわれる。

TOPIXの開始

 その後、東証二部の開設(1961)、中小企業の資金調達の場として、店頭登録制度(後のJASDAQ市場)の創設(1963)、東証株価指数(TOPIX)の算出開始(1969)など、規模の拡大と制度整備が進み、証券取引市場も活発化してくる。一方、東証は、外国株市場も開設し証券市場の国際化にも対応している(1973)。1980年代になると、経済の好調を受け、先物取引やオプション取引、様々なデリバティブ商品が上場されるなど、東証も新たな体制に取り組む姿勢をみせてくる。こういった発展を支えるため、1988年5月、 東証は「東京証券取引所新本館」の竣工させている。

<取引所の電子取引システムの導入による近代化>

株式売買立会場閉場日の様子(1999)

 こういった動きの中で、東証は売買執行の迅速化やコスト削減、効率化を目的に、すべての取引をシステムに移行することを決断、1999年、株券売買立会場を閉場し、新たな電子システムの導入をはかることとなる。長らく親しまれてきた対面の「立会」取引が終わりをとげることになった。こうして新たな装いで生まれ変わった東証は、2000年、株券売買立会場跡地に「東証Arrows」を開設、新しい電光掲示板による株価表示を開始して今の姿になっている。

かくして、江戸期の堂島から400年、明治近代化の中で生まれた東株から140年と長い歴史を経て発展した東証は、今や日本の金融取引の中心をなし、取引銘柄230万株、売上高1000億円と世界第三位の証券取引所に成長している。経済がグローバル化する中、東証の更なる展開が期待されるところといえよう。

♣ 東証のある兜町の歴史と証券会社

 JPXの東証史料ホールの展示コーナーには、渋沢の東証創設に関わる功績と金融の街兜町誕生への貢献が特別展示で記されている。これを参照しながら兜町界隈の証券会社群の成長と現在に至るビジネス街の歴史的発展を追ってみた。

<渋沢栄一が育てた“株”の街「兜町」>

明治初期の江戸橋みた兜町鎧橋遠景

 東証ビルのある日本橋は江戸時代から物資の荷揚げ場、兜町は武家屋敷も多い賑やかな土地だった。明治なると大蔵省などの役所、学校などが次々と建設される官有地となった。その後、この地区は、渋沢などの働きかけで民間に払い下げられ、金融ビジネスの中心へと変貌していく。この中心となったのが日本最初の銀行「第一国立銀行」(明治6年設立)である。また、明治11年には、蛎殻町に移転した米商会社の跡地に「東京株式取引所」も誕生する。これを契機として、為替会社や通商会社など金融や商業上の有力な会社が設立されるようになり、兜町は「証券・金融の街」へと発展していくこととなる。当時の第一国立銀行の建物は、擬洋風建築(和洋折衷建築)の一つとして錦絵にも数多く描かれ、明治・東京の新名所にもなったという。現在、この兜町界隈には渋沢栄一邸跡の日証館「銀行発祥の地」の碑、江戸時代に作られた石造の海運橋親柱などの遺跡がみられる。そして、忘れてならないのは鎌倉以前の創建の「兜神社」。これは兜町の名の起源でもあり、長く商売繁盛のシンボルとして証券業者の信仰を集めている。

<大正から昭和初期の兜町>

旧渋沢邸跡に建てられた現在の日証館

 大正時代になると、明治時代の証券市場がさらに発展・拡大し、取引所と株式仲買店との商い注文や出来高の連絡は多忙を極め、取引を行う人々で大変な賑わいをみせたという。しかし、関東大震災により東京株式取引所を含む兜町一体は焼野原となってしまうという悲運に見舞われる。こういった中ではあるが、東京株式取引所新築工事が始まり、新たな証券会社。銀行も再建されていくなど、兜町は震災を乗り越えた近代的な街並みに生まれ変わっていく。東京株式取引所も、昭和2年に市場館、同6年に本館が完成し、兜町のシンボルとして親しまれる存在になっていった。また、東京株式取引所近くにあった渋沢栄一邸の跡地には昭和3年に日証館が建設されている。ただ、太平洋戦争前後には、取引所の国有化などが進み、戦時色の中で停滞が進んだことも否めない。

<戦後の兜町界隈の再生と賑わい>

戦後期の兜町の街並み

 戦後、瓦礫の中で取引所は閉鎖されたが、証券業者による集団売買は続いていたようだ。昭和24年前後になると、米軍に接収されていた東京の日本の証券市場は再開、前述のように1949年には新しく東京証券取引所が誕生している。これにより兜町は再び“証券の街”としてスタートを切ることになった。特に、1960年代からの経済高度成長は、この発展を促進させる大きな要因になった。まさに兜町は、株取引のセンターとして殷賑を極め、立会所で株を取引する証券マンであふれかえる株の街「兜町」を演出することとなる。これが平成年間まで続く。

<東証の立て替えと電子取引のもたらした兜町の変化>

「KABUTO ONE]
「Fin GATE  KAYABA」

 一方、東証は増加する株取引に対応するため、2000年には長年続いた人手による売買を停止して電子式取引に切り替える。そして、立会場跡に「東証Arrows」を建設されたが、兜町界隈からは大勢の証券マンが姿を消し、証券会社も多くが兜町から退くという結果を生み出した。 時代の変化といえようが、兜町もかつての勢いを失うという寂しい結果となった。

各種の商業施設と新しいホテル計画「Hayat兜町」など

 これではいけないと誕生したのが2014年からの「日本橋兜町・茅場町再活性化プロジェクト」。この下で、2020年には旧第一銀行の外観を生かしながら内部をリノベーションした粋な店舗の「K5」、金融ベンチャー企業や金融専門サービス事業者の発展への貢献にフォーカスした施設「Fin GATE  KAYABA」の登場、2023年には 金融機関や証券会社、IT企業などが多数入居する ”KABUTO ONE”が誕生している。2025年には、ハイアットの最新ライフスタイルホテルブランド「キャプション by Hyatt 兜町 東京」が竣工を予定している。今日、日本橋兜町・茅場町は、金融の街として再生するだけでなく、新たなビジネス・文化の発信地、東京の新しい観光地に変貌しつつあるといえよう。新しい兜町の誕生が期待されている。

♥ 訪問の感想として

兜町の歴史シンボル「兜神社」

 東証の古い建物の頃、立会場の風景を見ることはあったが、今回の東証アローズの取引場を見学することが出来て、その変化ぶりに驚嘆する思いであった。天井をまわる取引展示電光板、流線型のコンピューター管理の取引テーブルはTVではよく目にするが、直にみるとその迫力は抜群であった。今回の主な目的は東証内の証券史料ホール見学であったが、そこに展示された史料から、明治初年の経済近代化、銀行の役割と設立、証券市場の成立の歴史的流れをよく把握することが出来た。また、株取引のブームを演出した東京株式所の役割、戦後の東証への変化、電子化による兜町の変貌の様子もよく記されていると思う。 ともあれ、東証周辺を歩いてみて、株の街として発展してきた日本橋兜町、茅場町の歴史的役割を強く認識できたと思う。また、金融だけでないファッション性にあふれた証券街に変貌しつつある姿を見いだせたのは収穫だった。まさに歴史と現代が交差する土地兜町を実感できた。

(了)

参考とした資料など:

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