千葉・佐原の「伊能忠敬記念館」を訪ねる

    ー伊能忠敬の足跡をと「伊能図」の魅力を探るー

伊能忠敬記念館概観
伊能忠敬像

  先に「地図の科学館」を訪問し各種古地図を見学してきたが、伊能忠敬の「伊能図」は特に印象深かった。このことから、今回、千葉・佐原に「伊能忠敬記念館」があると聞いて訪ねてみた。この記念館には伊能忠敬に関する貴重な資料が多数収集展示されている。伊能の生い立ちと前半生の記録、全国実測測量の行程を記した日誌、測量に使われた器具、実測日本地図の完成過程と評価など地図完成までの伊能の全足跡が丁寧に展示されている。

記念館の展示

  なかでも、国宝に指定された関係文書、大中小三図から「大日本沿海輿地図」(伊能図)は貴重である。今回、記念館と伊能の成果を見学し、50歳を越えた半生を天文学と地図作りに情熱を燃やした伊能忠敬の偉大さを感じると共に、日本の近代地図の基となった「伊能図」の歴史的価値を再認識した。なお、佐原は「小江戸」とも呼ばれる水郷の町であり、古い商家や水路のある街並みが魅力で観光も楽しんできた。
 以下は、伊能忠敬記念館の概要と展示内容、これに関連した伊能忠敬の足跡について、他の博物施設の資料も参照しつつ記してみた。

♣ 記念館でみた伊能忠敬の足跡

<忠敬の生い立ちと佐原>

佐原にある伊能忠敬の生家

 伊能忠敬は、上総国(千葉県)小関の村名主の子として生まれ、少年時代は地元の父のもとで過ごすが、勉学好きで目先の利く若者だったようだ。特に和算や経理には秀でており周囲からも期待されていたという。彼は17歳になったとき、縁あって佐原の酒造家・伊能三郎右衛門家に入婿する。当時の佐原は江戸につながる利根川水路に面し経済的に裕福な商家が多かったようだ。伊能家に入った忠敬は酒造業のほか米穀、運送、金融に精を出し、伊能家を佐原でも有数の大商家に育て上げた。また、町の有志として社会活動にも熱心に取り組み声望も厚かったといわれる。江戸中期の「天明の大飢饉」に際しては救済に乗り出し佐原からは餓死者も出さなかったという逸話も残されている。(この時期の忠敬の活動は記念館に特に多く残されている)

<天文学への志と測量>

資料掲載の忠敬の活動を記す史跡図ー深川、天文台など。右図は忠敬が歩測して測った経路Inopedia(InopPedia tokyo)

 記念館によれば、忠敬は商売に熱心に取り組む一方、青年時代から興味を持っていた数学や天文学の書籍を収集するなど学問の道も目指していたと伝えられる。そして、商家を大きく育てた後の49歳には、早々と隠居を決め家督を長男の景保に譲り後事を託す。その後は江戸・深川に住居を移し、秘していた天文・暦学への志をもって天文学者高橋至時に入門している。50歳過ぎた隠居後の晩学入門であったが、これが忠敬の偉業を果たす基礎となった。
 当時、江戸では暦を改める動き(寛政の改暦」)があり、幕府は民間の天文・暦学者高橋至時を作業に当たらせていた。高橋の弟子となった忠敬は、熱心に暦法と天文観察に取り組んだとされる。こういった中、1797年、ようやく「寛政暦」は完成するが、至時はこれには満足せず、暦をより正確なものにする子午線測定の必要を弟子達にも伝えていた。これに応えたのが忠敬である。忠敬は自宅の深川黒江町から浅草の至時の「暦局・天文方局」までの緯度の差が1分と推定、歩測を続けて結果を至時に報告した。至時は、その時は、労は多とするも近距離では正確さに欠けるのではないかと答えたと伝えられる。しかし、同時に、「正確な値を出すため、江戸から蝦夷地くらいまでの距離を測ればよいのだが・・・」と話したという。これがきっかけとなって忠敬の蝦夷地探索と測量がはじめられることになる。この経過も記念館で記録としてよく保存・展示されていた。

♣ 測量活動の開始と蝦夷地探索の行程

<全国測量の契機となった蝦夷探索>

伊能への蝦夷地測量辞令とされる書状
蝦夷地へ向かう伊能

  こういった中。師の高橋至時は、天文・暦学的関心を遠距離観測により実現すべく、当時課題となっていた蝦夷地探索を幕府に献策する。蝦夷地では、この時期、ロシアの南下圧力が増しており、ロシアの艦船が根室に入港、択捉島での侵攻などが起こっており緊張が高まっていたのである。 このような北方の緊張を踏まえ、高橋至時は、蝦夷地の正確な地図を測量によって作成する計画を立て幕府に提案を行ったのである。この任に当たらせたのが、先に、江戸で緯度差実測を実施していた伊能忠敬であった。至時は、蝦夷地の測量地図を作成すると同時に子午線一度の距離を求めようとしたのである。こうして寛政12年(1800)、幕府から忠敬に正式に蝦夷測量の命が下されることになる。
 

間宮と伊能の測量ルート
間宮林蔵

  そして、同年4月、忠敬一行は蝦夷地へ向けて出発した。忠敬55歳の時である。出発21日目で津軽半島を通過、その後函館に到着、函館山で方位の測定も行っている。この蝦夷地測量で忠敬らは117日あまりをかけ様似、幌泉、襟裳、釧路、厚岸など沿岸を、天体観測も行いながら歩測測量を実施している。この行程は記念館展示に詳しい。この間、探検家間宮林蔵と会合したとの記録も残されている。蝦夷測量を終えた忠敬は、10月下旬に江戸帰着、すぐに地図作りに取りかかり12月に地図は完成して勘定所に提出された。この蝦夷地測量地図は幕府からも高い評価が得られ、幕府の蝦夷経営に役立ったことは言うまでもない。この蝦夷第一測量には180日かかったが、子午線測量、地図製作の面でも大きな成果が得られることになった。一方、測量にかかった費用は莫大だったが、その大半は忠敬が負担するところとなった。佐原で得られた蓄財が、この測量で社会に生かされたことになったことになる。この蝦夷地測量の記録と作成されたの測量地図は、国宝として記念館にも所蔵されている。

<忠敬の使った測量法と測量機器>

伊能の測量機器(記念館の展示)

 記念館によれば、忠敬が行った全国測量の特徴は、伝統的な測量技法と欧米の天体観測利用技法の組み合わせであったという。前者は「導線法」といわれるもので、棒の先につけた目標物「梵天」を目印にして連続的に直線距離と方位を特定していく測量法。これは簡便ではあるが正確さに欠ける欠点があった。これを補正するため忠敬が使ったのが天体観測により経緯度を測定し位置を特定する方法である。江戸時代中期以降、幕府は、「天文方」を設け、西洋の天文学を導入して天体観測を行っていたが、ここで使われた器具や手法が全国広域測量に応用される形となったのである。この結果、忠敬の日本地図が以前のものと比べて格段に精密となった。 記念館には、全国測量で忠敬が実際に使った観測機器を多数展示している。

間縄と鉄鎖

  この幾つかを紹介すると、まず、導線法導でよく使われたのは「間縄」と「鉄鎖」というシンプルな用具がある。測量には多く歩測が用いられたが、これにより距離をより正確を期するものであった。また、「量程車」という一種の距離計測器も持ち込まれたが、凹凸が多い日本の道で余り使用できなかったという。方位角の測定に頻繁に使われたのは「わんからしん」(彎窠羅鍼)という器具である。棒の先につけた「梵天」という目印に向けて方位と角度を測定するものであった。また、測量隊は、山や坂道などの角度を計測した方位盤「半円方位盤」、観測地の緯度測定に使われた「象限機」も頻繁に使用している。そのほか、天体観測の「垂揺球儀」。「観星鏡」といったものも使われた。これらは、当時の測量技術のあり方を示す貴重な道具類となっている。

わんからしん”と象限機を使った測量
伊能測量隊の測量風景

<第一次から第十次までの測量過程>

  伊能忠敬の日本測量は、先の蝦夷地測量を最初の試みとして、1800年から1817年まで足かけ17年にわたって、10回の全国測量、地図作成が行われた。その経過を見ると下記の表のようになっている。これは北海道から東北、東海、近畿、中国、四国、九州、伊豆諸島に及ぶ。この十次にわたる全国をまわる測量は、行程3万キロ余にも及ぶもので、50歳を過ぎた老齢の忠敬には非常に過酷なものであったと想像される。

  • 北海道南部        1800年4月~10月             ・幌泉、襟裳、釧路、厚岸など
  • 東北・関東          1801年5月~12月             ・伊豆半島以東の本州東海岸
  • 東北・北陸          1802年6月~10月             ・日本海側の陸奥、越前、越後など
  • 東海・北陸          1803年2月~10月             ・沼津、渥美半島、大垣、敦賀など
  • 近畿・中国          1805年2月~11月             ・浜松、伊勢、紀伊半島、大阪など
  • 四国・奈良          1808年1月~翌年1月       ・淡路島、室戸、伊予、土佐など
  • 九州                  1809年8月~翌々年5月   ・小倉、延岡、大隅、鹿児島など
  • 九州                1811年11月~1813年5月  ・博多、佐賀、島原、種子島
  • 伊豆諸島              1815年4月~1816年4月   ・三宅島、神津島、新島など
  • 江戸                     1815年8月~翌年10月     ・江戸府内
伊能の「測量日誌」

 また、途上、師の高橋至時の死、自身の病気、現地役人らとのトラブルなど多難な測量行であったようだ。忠敬の意志の強さと指導力、測量隊の団結の強さに感服せざるを得ない。この過程は、記念館にも所蔵されている「測量日誌」に詳しく記録されている。
  これら苦難の測量の結果が、歴史を画する「大日本沿海興地全図」である。しかし、この地図の完成を前にして忠敬は73歳でこの世を去ることとなった。

♣ 大日本沿海輿地図の魅力と歴史的意味づけ

<国宝となった「伊能図」の内容と構成>

「伊能図」の概要

 完成した地図は「伊能図」とも呼ばれるものである。 原図は縮尺の違いによって「大図」、「中図」、「小図」の3種類からなり、それぞれ大図214枚、中図8枚、小図3枚から構成されている。「大図」の大きさは縦47メートル、横45メートルにも及ぶ巨大なスケールの地図である。また、これまでの国絵図とは異なり、日本全体をカバーした初めての実測による日本地図となっている。沿道の風景や山などが描かれ、絵画的にも美しい地図に仕上がっている。また、地図には詳しい街道や地名、村名などが記されていて極めて有益性の高い地図となっている。江戸幕府や明治政府も国土把握、沿岸警備に大いに活用されたと想像される。

体育館に実物大で展示された「伊能図」大図

 しかし、残念なことに、その伊能図の原図は江戸城の火災、関東大震災により消失し見られなくなってしまった。てしまった。ただ、その後、作業図や写しの地図が幾つかの機関での保管が確認され、明治以降、広く知られるようになった。この多くは後に国宝に指定され、伊能忠敬記念館にも多数所蔵されている。私も訪問の折、幾つか閲覧させてもらった。

<「大日本沿海輿地図」の歴史意義>

伊能図小図・本州東部

  記念館の解説によれば、江戸時代に作られたこの伊能図は、これまでの地図と根本的に違う価値をもっていたという。まず、この実測地図の完成によって、藩領域である「国」地図によっては得られなかった正確な日本国土全体の把握が可能になった点である。これまで日本全体の輪郭を示す地図はあったが、各「国絵図」の合成によるもので正確さを欠き輪郭が曖昧なものだった。これが実測と天文観測による測量で、初めて地形の状況、国領域の確定が全国的になされた。第二に、伊能図では、測量測線に沿って地名(村名)、山岳、河川湖沼、樹林、田畑、神社仏閣の存在が明記されており極めて有用性が高かった。第三に、地形、景観の表現や構図自体に美術的にも見栄えのするものとなっている点である。これは、正確さを期した科学的実践的な測量技法による正確な地図作りに加えて、測量に同行した絵師が各地の風景を描いたものを地図に入れ込むことによって、地図が広大な風景画のような魅力に富んだものになっている。これは記念館に展示されている伊能図の表現を見てもよくわかる。以下に、記念館の展示図について、他のソースから得られる幾つかの伊能図をを掲げてみる。

(大図) 能登半島南部・能登島  記念館 第102回収蔵品展 
(大図)東日本東海(記念館図録)

(大図)九州南部 鹿児島 (文化財オンライン)
(大図)九州北部沿岸(文化財オンライン)

 <伊能図の効果と反響>

  江戸幕府は、伊能に命じて作らせたこの地図によって、日本国土の全容を知ると同時に、頻繁に来航するようになった海外の艦隊に備えて沿岸部の地形を正確に把握することができるようになった。特に、ロシアの南下が懸念された蝦夷地での国領域確定の目的達成は大きかったといえるだろう。また幕末には、外国艦隊の侵入を防ぐ台場、砲台などが築かれたが、この築城にも役立ったと思われる。

シーボルトと日本
シーボルトによって紹介された日本の姿

 このように伊能図は非常に精密で日本の地勢把握に必須のものであったが、それだけに稀少価値が高く、幕政上の機密資料として長く秘匿され一般に出回ることはなかった。しかし、幕府に献上したもののほかに、製作途上の写し、下絵、作業図などはある程度出回っていた。こういった中で、幕府天文方の高橋景保(高橋至時の子息で伊能図作成に深く関わっている)を通じて、伊能図の写しがオランダの医師シーボルトの手に渡り、高橋は捕縛されるという事件が起きた(シーボルト事件)。結果、景保は獄死、シーボルトは国外追放になり、これ以来、伊能図はより厳密な扱いに転じている。いかに伊能の作成した地図が重要なものであったかがわかる。この伊能図が一般に公開され、本格的に利用されるようになったのは明治以降のこととなっている。一方、シーボルトにわたった「伊能図」によって、日本のことがより広く知られることともなった。

♣「伊能図」以降の測量と地図つくり

<明治時代以降の測量と地図>

 

陸軍参謀本部陸地測量部

 明治以降、社会の近代化を急ぐ日本にとって、日本の国土の姿を把握する正確な地形図、海図、地質図などの整備は必須の要件であった。このため、明治政府は、西洋の科学的測量法と観測機器を導入し、御雇外国人などを招聘して本格的な測量と地図作成に取り組んだ。 しかし、全国に三角基準点を定めた科学的な「三角測量」の普及には長い期間が必要であった。政府は、当面必要な地図の拠りどころとして「伊能図」を盛んに使用、参照したことはよく知られている。なかでも内務省、陸軍参謀本部、海軍水路部は積極的に「伊能図」の写本を収集、模写して使用している。 例えば、陸軍参謀本部では、明治初年、地図作成のための測量班を設けると共に、「伊能図」を活用して「大日本前図」を作成、明治初期の地方反乱に備えている。特に、明治10年の「西南の役」では、伊能の中図を骨格に、国絵図、地方地誌が使って「軍管図」も編集もなされた。また、海軍水路部では、収集した伊能図を書写し、編集して水路図の骨格を作成していたと言われている。

<陸軍参謀本部の「迅速測図」作成>

陸軍参謀本部の「第一軍管地方2万分1迅速測図原図」表紙

  明治における測量に基づく地図の作成の経過を見ると、まず、明治4年、工部省に工部省測量司が設置され、御雇外国人の指導による「三角測量」がはじめられた。 内務省でも地理寮を設置して精密水準測量が開始している。その後、測量・地図の所管が陸軍参謀本部測量課に移り、明治13年(1880)、「三角点」、「水準点」の位置基準に基づく地図作成が始まっている。一その結果が「迅速測図」である。この測量には主に旧幕臣の技術者が携わったといわれている。地図は基本的に1/20,000の縮尺で作成された。 陸軍によって作られたこの図が、以降の日本地図の基本となっている。そして、地図作成の役割は、戦後、国土地理院に移り現在のような姿となっている。

♥ 見学の後で・・・

 「地図と測量の科学館」に続いて、佐原の「伊能忠敬記念館」の見学をすることによって、江戸時代以来の地図作成の歴史と伊能忠敬の偉業、伊能図の歴史的意義とその価値をよく理解することができたと思う。それにしても、人生の後半50歳になってから発意し、全国を歩いて天文学と測量に情熱を燃やした伊能忠敬の生き方には敬服せざるを得ない。記念館は、この忠敬の足跡の紹介を通して「伊能図」の価値や偉大さを十分に伝えるものとなっている。佐原では、今年、伊能の150周年を記念して、香取市の体育館で伊能大図の再現イベントが開かれるそうで参加してみたいものである。記念館に展示されている国宝級の資料は、ほんの一部に過ぎないそうであるが、その価値は十分に認識できた。記念館の近くには、伊能の生家が保存されおり訪問者が絶えない。私も見学してきたが郷土でいかに尊敬を集めていたかがわかる内容であった。
 後日になるが、榎本武揚の実父前田良介は伊能忠敬の弟子となり全国測量に参加していることがわかった。この榎本は、明治維新後新政府軍と戦って箱館五稜郭で敗れたが、後に、許されて北海道開拓使官吏となり北海道開拓・調査に尽力している。また、ロシアとの樺太の国境画定交渉にも参画して樺太・千島交換条約を締結している。榎本は、長崎海軍伝習所、築地軍艦操練所時代に「伊能図」などにも触れる機会があったはずで、父子二代の蝦夷地(北海道)や伊能との関わりは不思議な縁といえるだろう。

(了)

参考とした資料

  • 伊能忠敬記念館 案内パンフレット
  • 「国宝伊能忠敬関係資料・図録」(伊能忠敬記念館編)
  • 伊能忠敬関係資料 文化遺産オンライン (nii.ac.jp) https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/202293
  • 伊能忠敬記念館 (totalmedia.co.jp)
  • 伊能忠敬:隠居後に前人未到の全国測量をnippon.com https://www.nippon.com/ja/japan-topics/b07210/
  • 香取市ホームページ (katori.lg.jp) 
  • 忠敬の足跡:香取市ウェブサイト:香取市観光サイト (katori.lg.jp)
  • 伊能忠敬e史料館(InoPedia.tokyo) https://www.inopedia.tokyo/index.html
  • 大日本沿海輿地全図 – Wikipedia
  • 川村博忠「江戸幕府の日本地図」吉川弘文堂
  • 細井将右「日本の近代地形図の始まり」風間書房
  • 井上ひさし「四千万歩の男」講談社
  • 山岡光治「地図をつくった男たち」原書房
  • 菊池正浩「地図が語る日本の歴史」暁印書館
  • 渡辺一郎・鈴木純子「図説 伊能忠敬の地図を読む」河出書房新社
  • 星埜由尚「伊能忠敬」(別冊太陽)平凡社
  • 伊能忠敬 – Wikipedia
  • 高橋景保 – Wikipedia

カテゴリー: Uncategorized パーマリンク

コメントを残す