つくばの「地図と測量の科学館」の見学

    ―地図の深い歴史とその役割を実感する科学館―

マスコット
「地図と測量の科学館」概観

  地図には多くの種類があるが、これらは旅行や登山、ドライブなど我々の社会生活上に有用だけでなく、鉄道、道路、防災、河川、国土建設などあらゆる公共事業になくてはならないツールとなっている。また、地図は地上活動の可能性とロマンを写す鏡ともいえるだろう。 こういったいったことを実感させてくれる施設が国土地理院の「地図と測量の科学館」である。ここでは地図と測量を主体に多くの貴重な展示を行っていて、地図の原理・仕組み、地図と生活との関わりについて多く学ぶことができる。

屋外「地球ひろば「
地図閲覧コーナー

 科学館内には、大きな立体日本地図、大小縮尺の地形図、識別標高図、歴史的な地図類、新旧の測量器具の展示がみられ、屋外には半円形の地球モデル、測量用の航空機「くにかぜ」、測量基準点史跡などが設置されており魅力的な資料館となっている。なかでも興味深いのは、江戸時代以来の歴史的な地図類のコレクションで、伊能忠敬の測量具展示、地図づくりに努めてきた先人達の多くの記録が記されている。近代国家の骨格と輪郭を定める「地図・測量」の意義を改めて感じられる科学館であった。

地図と測量の科学館
〒305-0811 住所: 茨城県つくば市北郷1番 国土交通省 国土地理院
https://www.gsi.go.jp/MUSEUM/index.html

 以下に、科学館の展示紹介と共に、日本の地図づくりの歴史、地図行政の推移、現代の測量・地図つくり技術を考えてみた。

♣ 「地図と測量の科学館」の展示構成

まずは「科学館」内の展示を紹介してみよう。

<地図のギャラリーコーナー> 

ホール床に設置された日本列島立体図

 入り口を入ると吹き抜けの大きなホールがあり、ここには「日本列島空中マップ」という床一面の大きな日本地図が敷かれている。3Dメガネをかけると日本地図が立体的に見える。私も試してみたが、山地や河川の起伏がはっきり認識でき迫力があった。
 ホールのコーナーを回ると「地図のギャラリー」。ここには国土地理院の作成した各種縮尺の地図、土地の特徴を示した地図(主題図)のほか、治水地形分類地図、過去の水害・浸水図、震災図など防災に役立つ地図の役割が記されている。特に、2020年の球磨川水害、2011年の東日本大震災の写真・図が目を引いた。

各種地図の展示コーナー
治水地形分類図 (1/25000)
自然災害伝承地図

東日本大震災の被害図
大震災による地殻変動図
球磨川水害浸水推定図

<地図と測量の通史がわかる常設展示コーナー>

地図の通史パネル

 二階に上ると「常設展示室」。ここには、測量と地図の歴史を記す大きな展示パネル、江戸時代以前からの古地図、伊能忠敬などの測量具、現代の測量機械類や図化機、緯経度基準点史跡などが豊富にそろえてある。地図と測量に興味を持つものには必須の展示である。なかでも、日本海山潮陸図(1691年)、大日本沿海輿地全図「関東」(伊能図中図(1821年))、改正日本輿地路程全図(1840年)などの貴重な古地図は圧巻である。また、江戸から明治、そして平成・令和と並べられた「東京中心部」詳細地図は、時代を通じた都市模様の変化を写す興味ある展示であった。

古地図の展示コーナー
「坤輿万国全図」(写本)の展示
(鎖国時代にももたらされ日本人の世界認識に大きな影響)

日本海山潮陸図(1691年)
改正日本輿地路程全図(1840年)

<地球のひろばコーナー>

 屋外の「地球ひろば」には、直径約22mの「日本列島球体模型」が設置されており、その上に立って見下ろすと人工衛星からみた日本の姿を実感できる。また、初代測量用航空機「あさかぜ」の実物、「電子基準点」となった「つくばVLBIアンテナ」の部品が展示されており、屋内展示と併せて現代の測量技術の姿を確認できる。

♣ 古地図から見る日本の地図と測量の歴史

 「地図と測量の科学館」の展示を参照しつつ、日本の地図づくりの歴史を他の資料文献を確認しつつ眺めてみる・

<江戸時代以前の測量と地図>

 

「越後御絵図」「越後領域郡絵図」米沢市上杉博物館所蔵

日本は、古代律令制形成以来、都城制定(条坊制)と支配領域、徴税源の確認のため「算師」、「図師」をおいて様々な書類、簡単な絵図が作られてきたことがわかっている。特に、「荘園制」が普及した10世紀以降、土地境界確定のため地図・絵図が盛んに作られるようになった。15世紀、戦国大名の領域支配が強まると、城下町の「町割り」、「検地」が行われて測量図も作られた。街道図、一里塚が整備されるのもこの頃である。しかし、全国規模の「検地」(太閤検地)が行われたのは、秀吉が全国統一を成し遂げた16世紀のこと。秀吉は、各地大名に検地帳と国絵図の提出を命じ、これに基づいて「文禄國繪圖といわれる国毎の地図も作成している。 

地図の科学館に掲載された「行基図」
僧 行基像

 一方、奈良時代の民衆仏教の指導者僧行基は、全国規模の絵図を作成したと伝えられている。しかし、この絵図は、現存せず仁和寺所蔵の日本図(行基図)は1305年(嘉元3)に作成されたものである。ただ、これ以降、江戸初期まで、日本列島全体の輪郭を形成している絵図は「行基図」(行基式地図)と呼ばれ、日本地図の原型として各種の形態で所蔵されている。

<江戸時代初期の測量と地図>

「日本六十余洲国々切絵図」(秋田県公文書館蔵)
日本六十余州国々切絵図 陸奥国

江戸時代からは国家事業として各地方(国)の「国絵図」の整備が行い、これに基づいて国絵図・郷帳が作成された。これは江戸時代初期の日本全国を一枚仕立ての絵図にしたもので「慶長日本図」と呼ばれ、国立公文書館されている。一方、国絵図としては「日本六十八州縮写国絵図」も作成された。また、正保年間(1645―)には,縮尺を統一した「正保国絵図」、「正保日本図」「正保城絵図」が作られる。その後も、幕政の改革に沿って、幕府は各藩に命じ何度となく地図の改訂を行っている。主なものは「元禄国絵図」「元禄日本図」、「享保日本図」「天保国絵図」といわれるものである。

<江戸中期以降の測量と地図>

長久保積水

  江戸時代も進むと、各地方での国絵図作り進み、農民、町人も測量法を身につけ、幕府の公用以外で地図も一般に普及するようになる。こういった中で、17世紀後期には浮世絵師石川流宣が作成した「流宣図」が出現する。このうち「日本山海図道大全」(1756)「分道江戸大絵図」がよく知られる。また、儒学者長久保赤水は、1779年、地形の正確さを重視した「改正日本輿地路程全圖」通称「赤水図」)を完成する。この「赤水図」は江戸後期の出版図として明治になるまでに広く使われた。「地図と測量の科学館」には「流宣図」「赤水図」共に貴重な古地図として展示されている。

大日本国郡輿地路程全図 1852  長久保赤水
日本海山潮陸図 (1691)

大日本道中行程細見記

  また、庶民の間で伊勢参りなどの旅行が盛んになると各種の道中絵図(「大日本道中行程細見記」など)が作られ、江戸では「江戸切絵図」が刊行されて便利な案内地図として広く使われたことはよく知られている。

<江戸後期、伊能忠敬の測量事業と地図>

大日本沿海輿地全圖本州東部)
伊能忠敬

  江戸時代後半に入る1790年代になると、日本沿岸に頻々と外国艦船が現れ、幕府も危機をおぼえるようになる。特に、北方の蝦夷地ではロシア船が侵攻、ロシアの南下も懸念される事態となった。これを受けて、幕府は日本沿岸の警戒を強めると共に、蝦夷地の探索、沿岸警備の実施と全国測量事業を開始する。

この測量・地図作成事業に参画したのが伊能忠敬であった。この測量事業は、1800年から1816年まで10次にわたる大事業で、ここ結果が「大日本沿海輿地全圖」の完成であった。この「伊能図」は、実際に計測具に基ついて測量した正確・精密な地図として当時の可能であった地図づくりの極をなすものと評価されている。 (伊能が実施した測量機器と手法、伊能図のレプリカは「地図と測量の科学館」の伊能忠敬コーナーに展示されている)

伊能図部分(四国)
伊能図部分相模、富士周辺)
伊能図部分(近江、山城周辺)

<明治初期の測量と地図>

陸軍参謀本部測量課の建物
日本水準原点標庫(重要文化財)

  近代化を目指した明治日本は、国家の基本的な構成要素である国土を正確に把握するため、江戸時代とは異なった科学的な測量技術に基づく地図の整備を開始する。まず、民部省では税徴収のため、明治2年、地理司を設けて租地積測量を開始、工部省では、明治4年、工部省測量司が設置され、御雇外国人の指導による小規模ではあるが三角測量が初めて実施、日本の鉄道建設にも貢献している。内務省も地理寮が設置して精密水準測量が開始している。その後、測量・地図の所管は陸軍参謀本部測量課に移り、明治13年(1880)、三角点、水準点の位置基準に基づく地図作成が始まった。

迅速測図原図 (索引図)

 完成地図としては、明治17年から、「二万分一迅速測図」、「仮製地形図」、「正式地形図」などが陸軍によって作成されている。その後、陸地測量部による本格的な三角測量が全国に展開された後、明治23年には基本縮尺を五万分一に変更された地形図「基本測図」が刊行されている。

 以上が、明治期までの測量、地図作成事業の歴史であるが、基本的には。それ以降も陸軍参謀本部主体の事業として実施されている。この体制は、1945年の終戦まで続くことになるが、戦後民主化のなかで所管は「国土地理院」に移り現在に至っている。

♣ 現在までの地図作りと「国土地理院」の役割

<太平洋戦争直後の測量・地図体制>

  終戦を境として、軍事機関であった陸地測量部は。一般行政機関として「地理調査所」に改変された。同時に軍事を主目的とした測量から、国土の開発や国民生活に直結した測量に切り替えられる。地理調査所は、基準点調査と復旧などの事業を実施しながら、測量、地図の調製、技術研究などが行われた1949年には測量の基準や測量体系を定めた「測量法」が制定されている。

<国土地理院の設立と測量・地図の進化>

 1960年、地理調査所が「国土地理院」と改称され、1964年には「測量法」が制定される。この新体制のもとで、測量事業では、三角測量や水準測量に加えて、地球の曲率が考慮した測地測量、地磁気や重力についても観測、空中写真測量も本格的に導入している。また、同時期、「特定五万分一地形図」という縦横1キロメートル間隔の地形図が国土地理院によって作成された。その後、全国の空中写真は撮影縮尺を二万分一に統一、同スケールの地形図全国整備が1983年に完了する。測地基準網一等三角網、一等水準路線も全国的に整備された。1990年代になると、全国GPS連続観測施設の運用、電子基準点の整備が進み、「数値地図」も作成されている。(これらは「地図と測量の科学館」展示の測量部門コーナーで詳しく展示解説されている)

<現代の国土地理院地図>

科学館で展示されている地形図案内

  国土地理院作成の「地形図」は縮尺が一万分一、二万五千分一、五万分一の3種となっている。これら地形図のうち一万分一地形図は都市域に限られ約300面で、二万五千分一地形図は北方領土も含め4419面で全国を覆っている。また、目的別の主題図として土地利用図、土地条件図、火山土地条件図、火山基本図、沿岸海域地形図、湖沼図などがあり利用範囲は広い。近年、」情報処理の高度化にともないコンピュータで処理しやすいデジタル地図も発行され、2009年からは「電子国土基本図」が登場し、国の基本図として位置づけられている。これらはインターネットで見ることができるという。

♣ 見学の後で 

伊能測量隊の測量作業を示す絵図

 今回、「地図と測量の科学館」を見学して、改めて地図の効用の広さと測量の歴史の深さを感じることができた。特に、地図コーナーで確認された地形図の種類の豊富さであった。土地の特徴を示した主題図、識別標高図、河川治水の地図、災害地図などが実際の地図、電子メディアなどで確認できる。また、東日本大震災時に地形がずれた様子が写真や地図で詳細に示されていることに驚きを感じた。床面に広がった日本列島3Dマップも非常にインパクトががあった。常設展示にある壁面一杯の有史以来の地図の歴史パネル展示も有益であった。何よりも感動なのは「古地図コーナー」。

国郡全図 上 (1837)

展示で紹介されていたのは江戸時代の「流宣図」「「赤水図」「伊能図」。それ以前の「行基図」「文禄國繪圖」策定などと考え合わせると、日本人が地図・測量に如何に熱心に取り組んでいたかがわかる。国地の確定、土地利用、街道往来、石高算定などに地図が必須であったことがわかる。中でも「伊能図」(大日本沿海輿地全圖)は、江戸後期、外国からの脅威を受けて、幕府が全国の地理的条件を急遽把握しようとした時代背景を反映している点で興味深いものであった。展示では、この伊藤忠敬の事績を示す測量具、測量法が丁寧に紹介されていて、当時の実測による地図作成過程を見る上で非常に参考になった。また、地図の基準点を決める三角点標石、高窺標の史跡標本も興味を引いた展示である。

伊能忠敬記念館(千葉・佐原)

  現在どのように地図づくりが行われているかを示す航空写真測量器具、電子基準点、航空機「くにかぜ」、地図の図化機なども展示としては非常に面白いものであった。 全体として、地図の意味と役割、歴史、測量技術の発展、現代の地図作りの姿を見る上で非常に参考になる博物館であった。今回の訪問で、伊能忠敬の測量・地図作りの歴史的意義がよくわかったので、千葉県佐原にある伊藤の生家「伊能忠敬記念館」にも近々訪ねてみようと考えている。

(了)

♥ 参考とした資料

各種地図の展示
地図の閲覧コーナー
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