つくばの「農業技術発展資料館」の見学

 ― 農機具の歴史を通じて日本の米作農業の展開を知るー

農業発展資料館のエントランス

 前節では、つくばの「食と農の科学館」の展示を紹介したが、今回は、この施設に付設する資料館「農業技術発展資料館」の見学報告をしてみたい。先史以来、「米」は、日本人にとってなくてはならない主要食糧あり、社会的「富」の象徴であった。また、稲作をどのように進めるかは、常に経済・社会の基本テーマでもあった。今回の「資料館」見学は、このことを自覚させてくれた。

展示された伝統農具

 水田耕作を中心とする米つくりは、田作り耕作、播種、施肥、刈取り、脱穀といった複数の工程せから成り立っている。また、必要な用具(農機具)も多種多様で、この善し悪しが米の収穫、品質、生産力と作業効率に大きく影響する。このため、農具については古来より様々な智惠と工夫、発明がなされてきた。資料館は、この農具の発展を中心に、日本の稲作の発展、農業技術進歩の歴史をみるという試みである。また、展示は近代的農業の形成に大きな役割を果たした「農業試験所」にも触れていて興味深かった。
 この見学報告では、展示内容を中心に農具の役割、発展、稲作の歴史を考えてみた。

♣ 農具の展示からみた農業技術の進歩

<日本の稲作の起源と農具>

日本に稲作が伝わったのは、縄文時代後期、2500年以上も前といわれる。当初、畑作、後に水田による稲作と変化してきた。初期は「天水田」と呼ばれる原始的な水田で天水(雨水)を溜める形であった。後になると水を確保するため溜め池などを作り、天水の不足を補う工夫もされる。これに併せて土木、治水の技術が発達、水田耕作用の農具も工夫されようになる。
この時代の耕作農具のほとんどはカシ材を加工した木製品であった。木鍬(きくわ)・木鋤(きすき)などを使って田を耕したのである。後期になると一部に鉄を施した道具も使われるようになる。籾(もみ)は田んぼに直にまかれ、稲が実ると石包丁で穂先だけ刈り取り形であった。 資料館の展示(電子アーカイブを含む)で、この時代の稲作、農具の様子を詳しく知ることができる。

<古代の稲作と農具の改良>

牛馬を使っての農作業の図
展示された馬具

5-7世紀になると、水田に家畜を利用した農作業が始まり、馬鍬(まぐわ)や犂(長床すき)、鉄製の穂摘具(ほづみぐ)や鉄鎌などが使われ、穀物は貯蔵穴や高床式倉庫に保管されるという形に進歩してくる。さらに8-9世紀には、田植えが本格化し水田の雑草を抜いてから、別の場所で大きく育てた稲を植える方法を編み出している。稲作を広げようと寒さに強い品種の開発も進んだと思われる。 家畜(牛馬)を使った水田耕作の様子、田植え用具、水田に水を引くために水車、属製の鎌(かま)、鍬(くわ)、鋤(すき)などによる稲作の一般化した姿が展示でよく表現されている。

<中世の土地制度と農業形態>

進化を続ける伝統農具
戦国・江戸期の新田と用水管の図

 土地所有をめぐる豪族達の争いが激化し、荘園という農地所有が広がったのは10世紀以降で、米が「富」と「権力」の象徴となる時代がやってくる。これに伴って農具や治山治水の技術も著しく進化した。また、武士階級の台頭は、土地制度と社会のあり方を変え、領地争いを激化させる一方、新田開発、米作りの生産性を向上させる方策や用具の工夫も進んでいった。治水技術の発達とともに管理組織も進化したのもこの頃である。今も残っている有名な堤防である「信玄堤」などはその一つといわれる。

<江戸期の農業経営と農機具の革新>

収穫後の米処理作業の図(江戸時代)

  しかし、本格的な土地制度の改革や農機具の発展がもたらされたのは、江戸時代になってからである。この時代、大規模な新田開発が進められて米や農産物の生産も増え、米を中心とする商品経済が都市農村に広がっていった。一方、年貢制度により農民の身分が固定されとのもこの時期である。こういった中で、幕府、藩は、域内の米増産を奨励し、農村内の有力な篤農家による農業技術を進歩させ革新させていった。

大蔵永常

 特に、宮崎安貞佐藤信淵とともに江戸時代の三大農学者の一人であったる大蔵永常は「農具便利論」を著し、農具の改良と普及に力を尽くしている。
  また、この時代に各種の新しい農機具が次々に開発されたことは広く知られている。例えば、耕作効率のよい「備中鍬」、米を選別する「唐箕(とうみ)」や「千石どおし」、田畑に水を引くための「龍骨車」、足で踏んで水車を動かす「踏み車」などがあげられる。中でもよく知られるのは脱穀を効率的に行う「千歯」である。これらは、改良した形で明治以降、近年に至るまで改良した形で広く使われていたことで知られている。


[唐箕]を使った脱穀(江戸時代)

  稲の品種改良も進み、肥料の改良(堆肥、泥肥、魚の肥料、干し鰯など)などにより米の収穫量も大きく増大している。展示では、この時期に開発された農具が多く紹介されていて、解説も付されているのでわかりやすい。

<明治以降の新しい農業技術の導入と農機具の役割>

展示されていた明治期の農機具

  近代的な西欧農業技術の導入によって農業生産、稲作の形が大きく変わったのは明治時代以降のことである。政府は、農業技術の革新に大きく注力し、お雇い外国人を招聘すると共に、学者や技術者を欧米に派遣して近代的な農業を学ばせている。また、国内に「農事試験場」を開設、新しい農業技術の移植に努めたことはよく知られている。特に、稲作については遺伝科学を応用して新しい品種の開発、化学肥料の導入と新しい除草方式、機械を使った各種農機具の採用などが例としてあげられるだろう。

足踏み式脱穀機

 一方、稲作については、日本古来の農具を近代農業工学で見直し、新たな農法の採用、農機具の発明も数多くなされた。改良された田植え方式の「正条植え」、雑草取りの農機具「田車」、新しい脱穀機械「足踏み脱穀機」などもこれにあたるだろう。しかし、一方では、江戸時代からしばしば起きていた「干ばつ」や「冷害」による不作や飢饉の到来は、このときになっても避けることはできず、食糧不足や米騒動などの社会的混乱も幾度となく起こったことは事実である。この明治期の農機具革命については、資料館展示で詳しく解説されている。

<1910年代以降における農機具の機械化>

動力農業機械の展示コーナー

 大正時代(1910-20年代)以降になると、農業の機械化が急速に進み、稲作の生産性を上げると共に、いかに省力化、重労働から開放するかが課題として浮上してくる。これらの農業機械の開発と採用は、農業全般に及び、田んぼの水の揚水と排水、脱穀、籾すり作業、精米、製粉、藁の加工作業などが次々と機械化され、農作業の形態を大きく変えていく。

機械化納期機進化の進化
初期の動力田植機
稲刈り用のバインダー

     

  昭和時代に入ると、米の生産はさらに拡大、動力耕うん機がなど実用化され普及してくる。一方で、昭和中期には戦時統制、戦争で大きな影響を受け、国土農地の荒廃、労働力は不足によって、農業生産は大きく後退したことは時代背景として否めない。

<戦後期の農業経営と農機具の変化> 

資料館にあるコンバイン  (ヤンマー製 AJ318)
資料館にあるトラクター  (カントー Li-R22)

  戦後の混乱期を乗り越えて、農業が復活し、新たな稲作の振興や農機具の導入が始まったのは1950年代以降である。この前後、地主制を改める農地法の改正があり、自作農奨励などにより農村社会が著しく変わったことも認識しておく必要があるだろう。この時代、工業の発展にともない、農業水利の改良、ほ場整備事業が進行、新しい栽培技術も展開されている。稚苗(ちびょう)を植える自動「田植機」が登場したのもこの頃とされる。除草剤の使用も一般的し、農業労働はさらに軽減化された。機械化やカントリーエレベーター(乾燥・貯蔵施設)も登場している。

<現代の農業問題と米作の見直し>

 しかし、一方で、日本経済の高度成長下で、人々が多様な食品を求める生活スタイルへと変化し、人々の米食志向が弱まっていく傾向が生まれている。この結果、農業政策は、米増産から「減反」奨励へと大きく変わり、米作逆転現象が起きてきたのである。一時は、戦争直後の「食料管理法」によって、米の自給確保を目的とした農政から、「米価」安定による稲作農家の保護政策への方向転換であった。
  米生産は、この農政転換により、米作は機械化推進と相まって、これまでの自作小規模経営から規模拡大農業に大きく動かざるを得ない時期になったといえる。ここにきて農業は、単なる農業技法の改良や農機具の開発に努力に待つだけでなく、広く農業経営のあり方、経済性、選択的農業、企業努力に移ってきたといえるだろう。また、農業人口の減少、農村の過疎化、後継者難や都市化による水の汚染の対策も求められる時代となっている。展示は、この点についても示唆していることに注目すべきであろう。

♣ 日本の稲作農業を特色づける「わら文化」と農具

 かつて「わら」(稲藁・麦藁)は稲・麦作の副産物として家畜の飼料や敷料として利用されたほか、農用資材の縄、むしろ、俵などの農業用具、生活必需品の「草履」や「わら靴」、「蓑」(みの)、「篭」(かご) などの素材としても広く使われていた。また、“わらづくり”は農閑期の副業としても非常に重要であった。この歴史を見ると、収穫が「穂刈り」から根元で刈り取る「根元刈り」へと変化する中で「わら」が多量に得られ、これを利用する方策として広がったものである。特に、稲の収穫量が増えた江戸時代には「稲わら」加工は急速に増え、利用範囲も拡大している。この稲作の副産物「稲わら」の活用の様子は、資料館に展示された数多くのサンプル、複製品、写真などにより確かめることができる。「わら」利用が当時の社会生活上以下に重要であったかがわかる。

農閑期に「わら」作りに励む農家の人々
「蓑」(みの)
展示された「草履」や「わら靴

 

刈った稲穂を田で乾燥させている風景

      しかし、稲作の方式が近代化する現在になると状況は大きく変化する。農用資材の縄などは化学繊維の袋やビニール紐に替わり、生活用品の多くがプラスチックに置き換わる中で、今日、縄製品やわら製品は殆ど使われなくなっている。また、収穫の仕方が稲束を結束しないコンバインのなるにつけ、多くの稲わらはその場で焼却され、「稲わら」の加工はほとんど行われなっている。ただ、かつて農村生活の必需品であった「わら」製品には、日本人が自然の中で培ってきた智惠と工夫がつまっており、その加工法は、今日も伝統技能の一部として生きているだけでなく、再利用の技術や智惠として今後も生かされるべきものも多く残されていると思える。

♣ 近代農業技術導入の嚆矢「農業試験所」の歴史と「農研機構」 

「農業技術資料館」の一部には、明治期に創設された「農業試験所」の歴史に関するパネル展示も用意されていて、日本の近代農業構築に関わる多くの事例と足跡を知ることができる。

<農事試験所の創設>

澤野淳
旧農事試験場本館(創立当時)

  農業に関する試験研究が日本で組織的に行われるようになったのは明治時代以降であるといわれている。明治政府は近代国家を目指した重要政策の一環として、海外から農業の専門家を招聘するとともに、多数の種子・農具の導入・試作・試験するための“農事試験研究施設”を設置した。このうち最も初期に設けられたもののひとつが、北海道開拓使によって1871年に札幌市に設立された「札幌官園」と「札幌農学校」。その後、相次いで「内藤新宿農事試験場」(東京新宿、1874)、「三田育種場」(東京三田、1877)、「駒場農学校」(東京・駒場、1878)、「播州葡萄園」(兵庫県、1880)が設立され、農業技術開発や試験、近代的な農学教育などが開始される。また、農商務省の「農事試験場」(東京西ヶ原、1893、初代所長澤野淳)の創立もほぼ同時期である。

農業技術研究所の碑(東京・北区滝野川)
東京大学農学部

  その後、北海道の「札幌農学校」は北海道大学、東京の「駒場農学校」は東京大学農学部に発展し、1893年創立の「東京農学校」(東京飯田橋)は東京農業大学へと発展、農業技術の研究、教育の中心となっていく。 また、国立の農業研究機関である「農事試験場」は、農業総合研究機構の基となる「農業技術研究所」となり、農業の実際面への応用のための農事試験と農事指導の中枢機関として発達していく。特に、品種改良,農具の開発、冷害対策などの理論面、実行面での試験研究に大きく貢献している。研究の特色としては、個々の直接的な指導奨励よりももっぱら農業技術に関する基礎的な研究に重点をおいている。

農研機構
福島県農業研究センター

  その後、1948年、農業改良助長法の制定に伴い、都道府県における試験研究と普及事業の役割分担は明確化され、国の試験研究体制についても改革が進められた。その結果、国立の農業試験場については農業技術研究所、地域農業試験場の2種が設けられ、農林水産省の試験研究機関の時代を経て、2001年に国立研究開発法人、2016年に、現在の独立行政法人「国立研究開発法人 農業・食品産業技術総合研究機構」(農研機構)となっている。

現在は、前身の農業技術研究所の業務を引き継ぎつつ、都道府県、大学、企業等との連携による共同研究や技術移転活動、農業生産者や消費者への普及活動を進めているという。

♥ 「農業技術歴史資料館」の見学のあとで

 

 今回は、農研機構の最近の技術開発、特に農産物の研究成果、先端農業の現状を記す本館展示に次いで、日本の伝統農具を中心に古代から現在までの稲作の姿、農機具の進化の過程を一連の流れとして見ることができた。これを通じて、日本人がいかに米作、食料生産に力を注いできたかがよく理解できたと思う。特に、江戸中期の農具の工夫や発明には、当時の農民の苦労や努力のあとが偲ばれ、驚きさえ感じる内容であった。また、稲わらや米作の副産品の展示は、農民社会の生活や労働の姿が反映していて非常に興味深いものがあった。これは「ワラ文化」といえるのだが、手に入る材料を工夫して使い、モノを無駄なく利用するという姿勢は、現在でも示唆に富んでいると思えた。

反当たり収量と労働時間の相関図(展示パネル)

  また、近代的農業の導入では、明治以降、政府が特に力をいれて、種苗の育成、水管理、科学肥料の採用、機械農具の採用と改良に取り組んで、その成果を上げてきている。資料館に展示された資料でみても、米の生産は、明治初年の450万トンから。1930年代に1000万トン、1960年には1400万トンと急増している。これ以降は、横ばいから減少傾向に転じ、2000年には8000万トンを下回る結果である。しかし、反当たりの収量をみると、1950年代以降増加、労働時間(10アール当たり)は同時期13時間から2000年には2時間と短縮され、逆に時間当たりの収量は100kgから600kgと急増している。この間、如何に生産効率が上がったのかがわかる。

日本の将来の農業は!

  しかし、先に指摘したように、ここに来て農業環境は大きく変わり、農業人口の減少、農村の過疎化、後継者難や都市化による水の汚染などの対策も求められる時代となっている。これからは、単なる農業技法の改良や農機具の開発に努力だけでなく、広く農業経営のあり方、経済性、選択的農業、企業努力を如何に改革していくかが課題となっている。 一方で、現下の国際環境の中で、農業の国際競争力をどう高めていくか、食糧自給率が4割となっている現実をどうとらえるか、農業の多角化をどう進めていくかなど課題は多いと思われる。これまでの農業研究機構で示された先端的な技術開発、大学、企業の農業技術の進展を多とするも、まだとらえるべき問題は多岐に及ぶものと思われた。今回の食と農の科学館「農業技術歴史資料室」」見学では、米作を中心にした農具の展開、生産スタイルの変化などやや狭い範囲であったが、今後の農業問題を考える上で非常に参考になったと思える。

(了)

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