味の素「食とくらしの小さな博物館」を訪問

    ―食品メーカー「味の素」の創業物語と事業展開を知るー

「食とくらしの小さな博物館」の展示室

 先日、東京・品川にある味の素の「食とくらしの小さな博物館」を訪ねてみた。当初、味の素社の研修施設としてつくられたものだったが、その後、一般向けに開放し、公共の博物資料館となった。 館では、小さな施設ながら、創業の歴史、開発した商品紹介のほか、日本人の食生活の変化を伝える展示を広く行っていて貴重である。そこには、創業者が「うまみ」成分を見いだして商品事業化していく様子、味の素が歴史を彩ってきた調味料の数々、開発してきた食品商品群が実物や写真で詳しく紹介されていて興味深いものだった。

「味の素」事業展開の展示

 また、明治生まれの家族企業が、小さな食品業から出発してグローバルに展開していく姿、日本の「食」が海外にも広く受け入れられていく姿が凝縮して反映されている様子がよくわかる展示で楽しめた。 記事では、この「小さな博物館」を紹介すると共に、100年以上の歴史持つ「味の素」創業の歴史と事業展開を追ってみた。

味の素「食とくらしの小さな博物館」
〒108-00744東京都港区高輪3-13-65 味の素グループ高輪研修センター内https://www.ajinomoto.co.jp/kfb/museum/

♣ 展示施設の概要と構成

 展示施設は三つの展示コーナーからなっている。 最初は味の素の歴史と商品を示す主展示、第二は日本の食事文化の展示、第三はライブラリーである。

  最初の主展示室では、味の素創業の歴史を示す写真、映像の展示があり、時代毎の人々の暮らしと食卓風景を示しながら味の素100年の商品群の紹介を行っている。第二の「食文化展示室」では、味の素が所蔵する錦絵や当時の料理レプリカを公開、今回は、江戸時代の食文化を代表する季節毎の名物料理を紹介していた。
 また、第三の「食の文化ライブラリー」は「食」に関する専門図書館で、蔵書は約40,000冊を数え、江戸~昭和の料理書を中心とした貴重書も2,000冊以上、DVDやVHSなど食に関する映像資料も所蔵しており登録制で閲覧できる。味の素社の歴史や日本の食文化の歴史を知るには最適の施設であろう。

♣ 味の素の創業と展開

<昆布とヨードから始まった「味の素」の創業>

鈴木三郎助
当時の葉山「ヨード」製造工場

 「味の素」の創業は1909年(明治42年)とされるが、それに先だって1907年創業者である鈴木三郎助「鈴木製薬所」を設立し、“ヨード事業”を開始したことが起源とされる。しかし、“ヨード”製作自体に最初に取り組んだのは三郎助母ナカであった。ナカは、1888年に貧窮の中、家計の足しにと海草からヨードを取り出して商売を開始した。そして、後に長男鈴木三郎助、次男の鈴木忠治が加わる形で、“ヨード”を生産する製薬所により事業化を進めたのである。当時、ヨードは、ヨードホルム、ヨードチンキなど薬剤資料として貴重で経済価値も高かった。また、ヨードをとった後の不要の灰からは硝石の製造が可能で火薬の原料にもなっている。鈴木家による事業化はかなりの成功をおさめ、時間が経つにつれ鈴木製薬所は家内工業から近代的な化学薬品事業へと脱皮していく。

<科学者池田菊苗の出会いと「うまみ」成分の商品化>

池田菊苗
グルタミン酸の特許証

 一方、帝国大学の助教授であった池田菊苗は、1908年、“昆布だし”の味の成分がグルタミン酸という「うま味」であることを発見、その製造法の特許を取得する。この事業化を考えていた池田は、昆布からのヨード製造で成功した鈴木三郎助に共同事業を打診する。当初、やや消極だった三郎助も、池田の熱心な誘いと事業の先見性を見いだし、グルタミン酸の商品化に踏み切ることとなった。これが食品メーカーとしての「味の素」の歩みの本当のはじまりとなった。
この経過は、博物館の展示コーナーに設けられた映像資料で紹介されている。

<調味料「味の素」の事業開始と拡大>

常滑焼の甕
「味の素」発売当時のチラシ

 鈴木は、池田の特許のもとでグルタミン酸の生産を開始したが、事業には大きな困難が伴った。まず生産面では、実験室でのグルタミン酸の抽出とは異なって、工業化するとなるとコストも考えた大量生産に移らざるを得ない。生産技術面では、第一に生産工程において強い塩酸を使用するため塩素ガスの処理、腐食を防ぐ加工用容器に工夫が必要だった。多くの実証実験と試行錯誤を伴いながら最後は容器として「常滑焼」甕が選ばれた。この甕容器は、味の素工場で1910年代まで使われていたという。博物館には、当時の苦労を偲ぶため、工場で使われていた常滑焼の甕(道明寺甕)が展示されている。また、原料として昆布ではコストがあわず、必要量を確保するのは難しいと製法が複雑になった小麦を使うことに踏み切った。しかし、何より難しかったのは、この新しい食材調味料をどうやって消費者に受け入れてもらえるかであった。このため商品名の検討も進められ最後に「味の素」となった。そして、商品の納入先や広告宣伝にも力を入れている様子が窺える。

<初めての市場販売と販路開拓>

第1号の「味の素」
味の素」の運搬や宣伝に使用した箱車

  こうした努力の末、1909年、初めての調味料商品「味の素」第一号が誕生する。30グラムの中瓶で50銭だったという。同年、これは上野で開催された第一回発明品博覧会に出品し銅牌を受賞している。しかし、当時としては、かなり高額で売れ行きはそれほどよくはなかった。まだ商品としては知名度が低く、消費者への浸透が十分でなかったのである。このため特約店の設定、小分けによる販売値の引き下げ、商品の効用広告などを積極的に実施している。中でも当時珍しかった新聞広告を多用して宣伝活動を行ったことが知られている。これら努力の結果、徐々に「味の素」の評価は定着していった。特に、中華料理店などで調味料「味の素」を添加することで“ひと味”増すとの評判の効果は大きかったといわれる。また、この間、製造法の改革なども行っている。

<「味の素」の積極的な海外事業展開>

鈴木商店の看板
初の新聞1ページ広告(1915)

 鈴木は、当初から池田による“グルタミン酸”による味覚増強は世界的な発明であるとして世界市場も目指していた。そして、1914年には販売量の増強に対応すべく川崎工場を開設、1917年には社名を「鈴木商店」とし、7月にはアメリカに事業所を設立して海外市場を目指す先駆けとした。中でも、食生活の類似するアジア諸国への進出は有望として、中国、台湾、韓国、東南アジア諸国への販路拡大を目標に掲げて動き出す。現地では、販売委託、特約店網を積極的に広げて現地市場への浸透を図っている。 まだ、日本企業の海外進出がそれほど盛んでなかった時期に“味の素”の強い世界市場志向はこうして始まっていった。 

後のことになるが、1970年代から「和食」が海外で広く評価され、和食の一つの特色である「うまみ」が注目されるようになった1985年「第一回うま味国際シンポジュウム」が開かれ、”UMAMI”が独自の味覚源であることが国際的に認知された。「味の素」は、その遙か以前に、”umami”に注目し国際市場で勝負してきた意義は大きいと思われる。人間の味覚には「甘味」「酸味」「塩味」「苦味」があることは古くから知られていたが、これとは異なった第5の味覚として「うま味」(UMAMI)が存在することが科学的に証明され。「味の素」の先見性が改めて評価されている。博物館では、このことが強く印象づけられる展示となっている。

♣ 「味の素」社の事業多様化と商品群 

「味の素」に事業展開を示す展示

 かくして「味の素」の販売事業は国内海外とも拡大していったが、関東大震災や戦争被害、戦時の物価統制など決して順調ではなかった。こういった中で商品デザインや販売広告などの工夫も繰り返されている。これは博物館の商品展示や広告写真などで垣間見ることができる。そして、戦後すぐの1946年、社名を鈴木商店から「味の素株式会社」と改めて戦争後の新しい消費市場動向に合わせた新製品の投入、独自の販売戦略をもって望んでいく。また、同時に、調味料以外の事業多様化も進めていく方向もとっている・ 

1960年代の商品群

 例えば、販売政略では、1951年に容器を瓶詰めスタイルから「ふりかけ式」へ変更し売り上げを伸ばしている。1958年には、傘下に「日本コンソメ株式会社」(後のクノール食品)を設立してスープ市場乗りだし、1960年には「アジシオ」、1962年には総合調味料「ハイミー」を発売している。さらに1968年に「味の素KKマヨネーズ」、1970年、マーガリン「マリーナ」、和風調味料「ほんだし」など新商品の投入が相次いだ。

味の素の冷凍食品

        

 特に大きいのは、1972年頃からの冷凍食品市場への参入であった。1972年以降の「エビシュウマイ」、同時期の「(冷凍)ギョウザ」などが例としてあげられている。そのほか「ハンバーグ」「エビグラタン」「麻婆豆腐」といったものも試行錯誤で製作されていたようである。この冷凍食品は、1980年代以降の電子レンジの普及と共に大きな市場として注目されていたものであった。 

さらに、1980年代には、飲料事業、医療事業にも参入している。飲料では「味の素AGF社」設立による清涼飲料、インスタントコーヒーなど、医療事業では、「レオフォス」、アミノ酸技術を応用した健康飲料「アルギンZ」、スポーツ飲料などである。積極的な海外展開も目立つ。アジアを中心に味の素の現地法人を設立すると共に、米国ケロッグ社との提携(1963)、ドイツのクノール社との提携(1964)、米国ゼネラフーズ社との提携開始(1973)などである。

  これら海外への積極的なアプローチと世界市場を相手にした事業展開と独自技術を応用した商品開発・販売戦略によって、味の素がグローバルな世界企業へと飛躍していったことがわかる。これらの展開は、博物館に展示された味の素の商品群展示で詳しく確かめることができるだろう。

♣ 味の素「食と文化の博物館」訪問で考えたこと 

今回の訪問では、日本の食生活と生活スタイルの大きな変化、明治生まれの小さな食品企業が大きなグローバル企業に成長している姿をみせてもらった。近年、日本の和食が独自の味文化の認識と健康志向よって世界的な認知度が高まっている。この中でいろんな食品メーカーが活躍しているが、味の素は、その豊富な商品群と積極的な市場開発において代表的な存在だったと思える。今回の訪問によって、この味の素社が、どのような形で企業を興し発展していったかをよく知ることができた。特に、創生期、池田菊苗が日本の十大発明の一つといわれる「うまみ成分」(UMAMI)を発明し、それを鈴木三郎助が苦節のうえ商品事業化して成功する姿はドラマチックであった。
  展示された味の素の商品群は、そのまま日本の食材・調味料・食品の代表的なものといってよく、日本の食生活と社会変化を感じさせる。また、戦後日本の社会生活、生活スタイルが形成される中で、日本の “食品文化”の核「和風のだし」“うまみ“が果たしてきた大きな役割、その技術発展が多くの独自の食品群をうみだしていることがよく認識できた。

(了)

参考とした資料など

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