ーコロナから考える幕末・明治のコレラ流行と先人達の挑戦ー



今年3月初旬、国立公文書館では企画展「明治政府とコレラのたたかいー衛生の始まりー」が開催されていたので見学してきた。新型コロナの流行が続いている折りでもあり、同じようなパンデミックが幕末・明治の日本を襲ったことを思い出させた。当時、原因も特定できず治療法もわからないまま数十万人が亡くなるという悲惨なもので、政府も民衆もコレラの流行に大きな社会不安と混乱の中で対応に追われたことがよく展示の中に記されていた。

しかし、これを契機として日本にも「(公衆)衛生」という概念が生まれ、「感染症」への科学的医療がはじまったといわれる。今回の展示では、このことを改めて考えさせられた。
見学資料の内容を紹介すると共に、明治以降の社会インフラである公衆衛生制度の成り立ち、近代伝染病医学の確立への道筋を考えてみたい。
♣ 幕末・明治のコレラ・パンデミックの現実と対応
まず、展示に示されたコレラの脅威と日本への侵入、明治期コレラのパンデミックについてみてみる。
<コレラの流行の始まりと脅威の拡大>

感染症コレラの症状が最初に確認されたのは19世紀初めことである。インド・ガンジス川流域で広がった一種の風土病だった。このコレラが、1817年頃、カルカッタでの流行をきっかけとしてアジア全域に広がり世界的なパンデミックを引き起こしたのであった。

この一部が長崎から侵入し最初に西日本に流行が広がった。 第二回目の波は、「安政5ヶ国条約」が結ばれた1858年、アメリカ船の乗員から広がったといわれる。このとき、コレラによる死者は江戸だけで12万人以上に及んだという。この流行は、病気の原因も対処法もわからないまま死んでいく病人をみて、住民の間に大きな恐怖と社会不安が引き起されたことは想像に難くない。江戸の浮世絵師歌川広重もこの流行で命を落としている。(これらの有様は、火葬し切れないほど山積みの棺桶を描いた『安政箇労痢流行記』(国立公文書館所蔵)の口絵「荼毘室(混雑の図」にも描かれている)

これら流行が、外国人への忌避と開国への批判、ひいては、「攘夷運動」の激化と幕府の弱体化をもたらしたことも否めない。次のコロナ流行の波は、文久2年(1862年)におこった。今回は、内国廻船の往来で運ばれたコレラが全国に及び、江戸時代の流行では全国に最も多くの犠牲者を出したと言われる。 コレラは感染すると、激しい嘔吐、下痢がはじまり、全身痙攣をきたし、瞬く間に死に至るため、当時、「三日コロリ」「トンコロリン」、頓死を意味する「コロリ」と恐れられ、漢字では千里をかけて流行する「虎狼痢」として不安がられた。しかし、治療法は見当もつかず、神罰だとして加持祈祷や病気退散の「お札」にすがるか、ただただ黙って見守るしかなかったのであった。
<蘭学者のコレラ対応>


こういった中で、わずかに医学的な対応があったのは蘭学者の間でのことであった。例えば緒方洪庵は、コレラの治療手引き書「虎狼痢治準」(安政5年)を表してハッカ温浸液,芥子泥の貼布,温蒸溻法,単浴法などを治療法としてあげている。また、幕府は、文久2年、洋書調所にオランダの医学書「衛生全書」を翻訳させ、抄訳の「疫毒預防説」として刊行している。ここでは基本的な予防法として「清潔」「空気循環」「運動と食生活」をあげていた。しかし、伝染源の下水、飲料水などには多くは触れていなかったようである。
<明治後のコレラ流行と医療・衛生制度への取り組み>


このコロナ流行騒ぎは、時代が変わった明治でも幾度となく日本を襲った。 明治10年(1877)には、西南戦争時に戦線でコレラが発生、帰還兵によって流行が全国に広がったといわれている。その後、明治12年、15年、19年にも繰り返しコレラ流行が起きている。特に、明治12年と19年には死者10万人を越える流行を来した。
このような事態に対し、明治政府は衛生、防疫体制の整備を急ぎ、明治12年(1879)に「虎狼痢病予防仮規則」(太政官布告23号)、明治13年には「伝染病予防規則」(太政官布告第34号)を公布している。


これに先立って、幕府の医療体制への反省から広く西洋医学の医学・医療の知識を吸収すべく、明治政府は、「岩倉欧米使節団」の中に文部省随員医師の長与専斎を加えて欧米の医学教育を学ばせている。長与は、帰国後、「内務省衛生局」を設立して初代局長に就任し日本の衛生・医療行政の基礎を築かせている。
<防げなかったコレラの流行>


この衛生局の主導の下で、明治初期には、コレラ流行の主因となった「西南戦争」の帰還兵に対して、入港制限、検疫所でのコレラ検査の実施も布告している。しかし、明治12年、19年の大流行は、予防や治療方法は確立できておらず流行の拡大は防ぐことはできなかった。また、衛生局は、当時のコレラ流行の実態を把握すべく、明治15年、「虎狼痢病流行記事」書を作成し、患者・死者数の統計分析を試みている。この中では加熱処理のない魚料理を食したこと、川の水を直接飲んだことなどが感染の要因と疑われるとの記述もなされている。 ようやっと科学的なコレラ流行の原因に迫る指摘が生まれてきたといえるだろう。

さらに、政府は、コレラの予防策を浸透させるため、先の「虎狼痢病予防規則」通達に加え、内務省衛生局に説諭集を作成、日常的な予防策、家族等に感染を拡大させないための具体的な方法なども提示している。(内務省衛生局編「虎狼痢病予防諭解」社寺局出版)
<コレラ対策と衛生促進のための水道制度の確立>


コレラなど感染症の多くは、汚れた「水」を解して広まっていることが次第にわかってくるに従い、清潔な水の供給が必須であるとの認識が高まってくる。 このため日本においても西洋式の水道の普及が急がれるようになってきた。こいった中で、当時、海外から持ち込まれるコレラなど伝染病の蔓延を防ぐことを主眼として、明治20年、横浜で初めて近代水道が布設された。横浜に続いて、明治22年に函館、明治24年に長崎と、港湾都市を中心に次々と水道が整備されていく。そして日本初の「水道条例」が制定されたのは明治23年のことである。
<東京の水道建設とコレラ>


東京においては、江戸時代から玉川上水などを通じて市内に広く水道は行き渡っていたものの、幕末・明治にいたって維持管理が不十分になり、水路の汚染や木樋の痛みから漏水や汚水の流入が激しくなってくる。これが江戸、明治初期のコレラなど伝染病の流行拡大の要因にもなっていた。こうした中、明治19年の東京におけるコレラ大流行がおきる。これを踏まえ、東京(府)都は、上水改良は現下の急務であるとして、明治21年(1888年)内務省衛生局顧問技師バルトンを主任とする近代水道の調査設計に着手、 東京水道建設報告書が作成された。

その後、具体的な設計をめぐって検討が加えられたが、最終的に、明治 23年、東京府知事により告示され実施に向かう。この水道は、多摩川の水を淀橋浄水場へ導いて有圧鉄管により市内に給水するものであった。かくして、若干の変更後着工、明治31年、神田・日本橋方面に通水したのを初めとして、順次区域を拡大していった。東京全域に水道が引かれるのは、明治44年(1911年)と20年もかかる工事であった。大都市における水道の建設がいかに大事業であったかということも指摘できる。

しかし、これによりコレラの流行の要因の一つは取り除かれることとなり、市民の衛生環境は大きく改善された。 これら水道事業建設に大きく貢献したのは、英国人技師H.S.パーマーとW.K.バルトン氏、そして東京市水道改良事務所の技師中島鋭治である。特に、バルトンは、明治期のコレラが猛威を振るった日本を訪れて東京の水道建設計画に関わり、公衆衛生に務めたことから「日本の衛生工学の父」とも呼ばれている。 また、後のことになるが、大正時代東京市長なった後藤新平は、東京浄水場に「塩素殺菌」法を導入した結果、水をめぐる衛生が格段に改善したことでも知られている。参照:https://igsforum.com/visit-tokyo-waterworks-historical-museum-j/
<コレラ流行防止のため需要だった検疫体制の確立>


水道事業と並んでコレラなど伝染病の防止に重要だったのは、日本における検疫体制の確立であった。先に触れたように長与専斎は、内務省衛生局長として「虎狼痢病予防規則」を制定するが、これに併せて、明治12年、横浜と神戸の二港に「消毒所」を設置している。 これにより、コレラ流行地より入港する船舶については船中を調査、汚染の場合は神奈川県横須賀長浦の設置してある「消毒所」へ回航して消毒を施行することとした。 また政府は、同年、「海港規則」に基づき神奈川県に地方検疫局を設置し管理を行うこととした。


しかし、当時、外国船の検疫をめぐっては自主権の乏しかった日本は、実際の執行に多くの困難が伴ったとされる。この間、コレラの流行は幾度となく日本を襲っている(特に明治19年には大流行があった)。 この状況は、外国との交渉に難渋したため長く改善をみなかった。明治32年になってようやく自主的な「海港検疫法」の制定で解決をみた。この結果、横浜に臨時に設けられていた「長濱検疫所」は、内務省直轄の「横濱海港検疫所」として常設の機関となっている。興味深いのは、この検疫所の海港検疫医官補として採用されたのが若き野口英世であったという。野口は、黄熱病の研究など伝染病予防に大きな成果を上げるが、そのきっかけとなったのが、この検疫所の仕事であったという。
(https://www.forth.go.jp/keneki/yokohama/museum/page2-1.html 横浜検疫所の変遷|明治150年事業特設|横浜検疫所 (forth.go.jp))
<後藤新平の検疫と公衆衛生業績>


さらに、明治20年代、長与の誘いで衛生局技師となった後藤新平は、明治28年(1895)臨時陸軍検疫部事務官長に就任し、検疫の責任者として日清戦争帰還兵23万人の検疫に当たっている。当時、中国大陸ではコレラやチフスが荒れ狂っており、これをどう防ぐかが大きな課題であった。後藤は3カ月間で687隻23万2346人を検疫、その半分近い258隻が伝染病患者を乗せていたが、コレラ感染者269人などを隔離して感染拡大を阻止している。この的確な水際対策がなかったら国内のコレラ患者数は莫大となっていたといわれている。後藤は、また「国家衛生原理」を出版し、単に病気から守るだけではない「衛生」という概念の重要性を強調している。また、台湾赴任時代、医師であった後藤は台湾の「公衆衛生」の普及に大きく貢献したことはよくしられている。コロナ禍の今こそ振り返る 後藤新平と西郷菊次郎①|ニュースがわかるオンライン (newsgawakaru.com)
<終熄に向かった明治のコレラ流行と公衆衛生の定着>

政府によるコレラ予防政策の浸透、水道の整備、検疫の徹底などによって、明治後半以降、大流行は徐々に収まっていく。また、「公衆衛生」の浸透は大きくコレラ終熄に貢献した。また、1833年にコッホがコレラ菌を発見したことで、コレラが代表的な水系感染症であることが判明して対処法が明確になってきたことも大きい。(前図のグラフ参照)

これらは、国立公文書館の企画展「コレラ」の展示中の公文書類、「衛生知識の普及」、「水道の整備」「広まる水道の大切さ」「終熄に向かうコレラ流行」、「様々な伝染病に備える」に見て取れる。
展示資料にみるように、コレラに限らず深刻な伝染病(感染症)は時代を超えて人類、そして日本社会に深刻な脅威を与え続けている。これに対処することは過去も現在も世界共通の課題となっている。
<国立伝染病研究所と北里柴三郎>


日本では、明治のコレラ流行を基点として、長与専斎が初めて「衛生」という概念を日本に導入、内務省に「衛生局」を設置して伝染病への対応をはじめた。その後、後藤新平、北里柴三郎に引き継がれ、国の伝染病政策、公衆衛生政策の中軸を担っていくことになる。1897(明治30)年には「伝染病予防法」(法律第36号)が制定され、防疫課が設けられた。衛生局全体では、コレラ、ペストなどの急性伝染病、結核などを扱ったほか、衛生行政として、寄生虫予防、保健衛生、上下水道など環境衛生などにも取り組んでいる。また、同1897年、国立伝染病研究所を発足させ、これが後の東京帝国大学伝染病研究所(1916年)、東京大学医科学研究所(1967年)へと発展していく。一方、北里柴三郎は、1916年、国立伝染病研究所の後、民間で北里研究所を設立して多大な成果をあげた。 このようにコレラの経験から学んだ日本は、多様な公衆衛生のシステムを構築していったことがわかる。
♣ 見学から考えたこと


ところで、2019年中国武漢で始まった新型コロナは瞬く間に世界に広がり、日本でもこの3年間大流行が続いて社会生活に重大な被害と混乱をもたらした。改めて考えてみると、感染症の蔓延は時代を超えて幾度となく人類に脅威を与え続けている。歴史は繰り返すということであろうか・・・。 日本でも幕末・明治のコレラ大流行は社会に大きな疵を残した。当時、原因も特定できず治療法もわからないまま、数十万人が亡くなるという悲惨なものだった。しかし、これを契機に、日本でも、感染症への対応として「公衆衛生」という概念が生まれ、再度の大きな流行を防止する政策、制度作りが始まったことも事実である。今回の国立文書館の企画展示は、この時代のコレラ流行の原因追及と防止策への取り組み、先人達の「衛生」制度創設へ過程を示すことを目的としているが、現在でも後を絶たないウイルス感染症への警鐘をならす貴重なものであった。
(了)
- 国立公文書館 令和4年度企画展「明治政府とコレラのたたかいー衛生のはじまりー」図録
- 同簡易図録 https://www.archives.go.jp/exhibition…
- 同資料一覧 https://www.archives.go.jp/exhibition…
- 展示紹介:「衛生のはじまり、明治政府とコレラのたたかい」(国立公文書館令和4年度第3回企画展) – YouTube
- “コロリ ” 対策も「手洗い」「換気」が重要だった:幕末から明治にかけてのコレラ大流行と予防法 | nippon.com
- コレラの流行~西洋文明への反発と受容ssr4-46.pdf (pref.shizuoka.jp)
- “コロリ ” 対策も「手洗い」「換気」が重要だった:幕末から明治にかけてのコレラ大流行と予防法 | nippon.com
- <歴史から考えるコロナ危機>第1回「明治のコレラ~令和のコロナ」 | 研究プログラム | 東京財団政策研究所 (tkfd.or.jp)
- コレラの歴史 – Wikipedia
- コレラとは (niid.go.jp) 国立感染症研究所 所長 竹田美文
- 公衆衛生学の歴史 267.pdf (sankyoshuppan.co.jp)
- 公衆衛生の歴史 (sip21c.org)
- 天下大変-流行病-疫毒予防説(『視聴草』続8集の3):国立公文書館 (archives.go.jp)
- コロナ(110):後藤新平の功績:日清戦争後帰国者からコレラ感染検疫徹底 (cho-yo-yakkyoku.co.jp)
- コレラが日本で絶滅し、世界でも減りはじめた理由:朝日新聞デジタル (asahi.com) https://www.asahi.com/articles/SDI202001173911.html
- 第1回 『長与専斎と内務省の衛生行政』 | 桃山学院大学総合研究所 (andrew.ac.jp)
- 長与専斎と「衛生」 梅渓 昇 ja (jst.go.jp)
- 日本人の命の謎──新型コロナウイルス脅威の中で【竹村公太郎】 | 公 研 (koken-publication.com) 後藤新平と水道塩素消毒
- 横浜水道のあゆみ(概要) 横浜市 (yokohama.lg.jp)
- 水道 – Wikipedia 上水道 – Wikipedia
- 東京水道の歴史 東京水道の歴史 (suidorekishi.jp)
- 天下大変-流行病-安政箇労痢流行記:国立公文書館 (archives.go.jp)
- 横浜検疫所の変遷|明治150年事業特設|横浜検疫所 (forth.go.jp)