―伝統を誇る私立農大の標本コレクションと農学の歴史点描


東京・世田谷に本部のある東京農業大学のキャンパスに「食と農」を題材とした博物館があると聞き、興味を持ち見学してきた。東京農業大学は、前身を含めると130年の長い歴史を誇る農業関係の総合大学である。それだけに、この博物館は豊富な内容の農学標本と展示品を所蔵していて見学していても飽きなかった。博物館は、大学の110周年を記念し2004年に開館したもので、海外からの見学者も多く、当日にも東南アジアからの訪問団が来訪していた。博物館の常設展示では、鶏の剥製標本、稲の標本、農具、酒造具や酒器、材木標本、日本の古民家再現展示などのほか、珍しいものでは、農大卒業生OBの酒造器紹介、各地の農産食品展示、二母性マウスなどの展示が見られる。また、日本における農学発展の歴史を刻む東京農大の歴史展示も興味深い展示である。隣接地には「バイオリウム」と名付けられた熱帯動植物園も設けられている。農業の歴史と農産品に関心のある人には訪ねる価値のある博物館の一つと思えた。
○東京農業大学「食と農」の博物館
所在地:〒158-0098 東京都世田谷区上用賀2丁目4−28
TEL:03-5477-4033
https://www.nodai.ac.jp/campus/facilities/syokutonou/
♣ 「食と農」博物館の概要と大学

「食と農の博物館」は、前述したように東京農業大学110周年を記念し2004年に一般公開された施設である。博物館の建物は隈研吾氏の設計によるもので、環境を意識した見事な構造であった。博物館の源流は、「日本の博物館の父」とも称される博物学者田中芳男が、明治37(1904)年に設置した標本室に遡るという。
博物館の一階部分は大きな吹き抜けになっていて、広い空間に来訪者の案内コーナーやホール、研修室、農産物紹介コーナー、天然木の展示、大学の歴史紹介、企画展スペースなどが配置されている。訪問時の企画展では荒川弘氏の酪農のイラスト展示をやっていた。二階部分は常設展の展示スペース、各地から集めた鶏の剥製標本、酒造りのジオラマ、酒器、農具、古民家再現展示などがある。なかでも日本古来の尾長鶏の剥製、農大OBの酒造器紹介は見事であった。
<ホールに展示された大学の創立者とその事績>



博物館のホールに入るとまず目に付くのは、大学創立者の大きな写真と大学の理念を記したパネルである。大学の前身「徳川育英会育英黌」の設立者榎本武揚、そして初代学長の横井時敬の事績が記されている。横井については、農学者としての実績と同時に、同氏による「足尾鉱毒問題」への社会的告発も紹介されていて、被害に遭った渡良瀬川被害者からの大きな「感謝の垂れ幕」が天井からつるされていた。同大学の重視する農業資源保全と社会・自然環境保持への理念が強調される形となっている。
<大学の系譜を示したパネル>

次に目にするのは大学の沿革を記した「東京農業大学の年譜パネル」である。これによれば、同大学は、明治初年に北海道に設立された「札幌農学校」に続いて古い私立の農業大学校である。これが「徳川育英会育英黌」農業科(1891年)で、明治初期、北海道開拓にも携わった榎本武揚が西洋科学に基づく農民教育の場として設立したものであった。

その二年後、同校の農業科は独立して「私立東京農学校」となり、その後、大日本農會付属の「東京高等農学校」改称している。1903年には専門学校令により私立東京農業大学と改称した。初代学長には前掲の横井時敬が就任する。また、1925年には大学令に基づく東京農業大学となって農学部農学科および予科設置に至る。

戦後になって被災した常磐松校舎から、世田谷キャンパスに移り7学科を開設、本格的な農業総合大学となった。現在は、世田ヶ谷本部のほか、厚木キャンパス、北海道のオホーツクキャンパスも設けられている。そして、農学部はじめ、応用生物科学、生命科学、地域環境科学、国際食糧情報、生物産業の6学部、23学科を抱える創業農業科学大学となっている。 この展開は、明治時代の農学からはじまって、現代日本の農業科学・環境・生命科学へと進んだ農業教育発展の道筋でもあるように見えた。
♣ 博物館「食と農」の標本と展示物
博物館には大学の歴史のなかで収集され研究されてきた多様な展示物が常設展示として公開されている。いずれも珍しく貴重なものである。これらのうち幾つかを紹介すると次のようである。(なお解説文などは展示パネル、博物館Webによっている)
<鶏の剥製標本>



まず、展示品のハイライトの一つは、世界中の鶏(ニワトリ)の剥製コレクションである。ここにはニワトリの先祖とされるセキショクヤケイなど野鶏4品種、天然記念物の指定を受けている日本鶏26品種、外国鶏11品種の123体の剥製が展示されている。食用として最も人間に多く利用されているニワトリの進化、形態の全容を見ることができる。
・(鶏の剥製標本コレクション 同目録 453722ded1d798ab91959c04188f68ce.pdf (nodai.ac.jp )
<二母性マウスの剥製―かぐやー>

卵子の遺伝子のみから発生したマウスの剥製展示。東京農大バイオサイエンス学科の河野友宏名誉教授が、2003年、世界で初めて卵子だけで哺乳類生体を生み出すことに成功させ「かぐや」と名付けた。科学誌 『ネイチャー・バイオテクノロジー』にも掲載され注目されたものである。バイオテクノロジーの新しい領域を示すという。
・哺乳類で初めて!単為発生するマウス誕生 東京農大教授ら : サイエンスジャーナル (livedoor.biz)

<林産物―材鑑標本―>
森林の機能や利用について科学的にアプローチする森林総合科学科が収集している材鑑標本を47種所蔵・展示。代表的なものに樹齢1,400年の屋久スギ、樹齢300年の魚梁瀬(ヤナセ)スギなどが含まれている。
•材鑑標本 | 東京農業大学 (nodai.ac.jp)
<日本の古い農機具>


全国から集められた約3,600点の農機具のうち数十点を展示。農具の収集は、田中芳男氏(農大前身の東京高等農学校初代校長、伊勢神宮の農業館を創設)が、明治37年に作った「標本室」からはじめられた。 古農具は地域の自然条件や農業条件に最も順応した機能性があり、地域に生きる人々の知恵や文化が組み込まれている。日本の農業は、人力から蓄力そして動力へと技術革新によって生産力を高めてきているが、生産力優先型や機能優先型へと追い求める中で、ともすれば自然と共生する循環型で持続的な生産文化を忘れがちになる。改めて見直すと新たな発見と古人の知恵を見直すきっかけにもなると思われる。農大らしい貴重な文化財の展示と思われる。「日本の産業遺産300選」の指定も受けている。
•古農具 | 東京農業大学 (nodai.ac.jp)



<日本の古農家再現展示>

農家の古民家を再現したジオラマ 展示。展示により日本における古い農具の歴史的背景や使用法について観覧者がイメージし理解できる構成になっている。博物館では、これを農大 「村の古民家」と呼んでいる。
• 村の古民家 | 東京農業大学 (nodai.ac.jp)
<日本お酒造りと酒器の展示>

ここでは、時代時代の「酒の文化」や地域ごとに特徴のある「杯」酒器を200点あまり展示している。農大醸造科の創立者住江金之氏による収集の成果で、日本人の生活文化や工芸技術のありようを示す展示でもある。同じフロアには、米作りと酒造りの現場、酒宴を模したジオラマが配置されていて、どのように米が収穫され酒に仕込まれていくかの過程がよくわかる展示である。また、酒造りに使われる用具類、洗米・蒸米具、醪・仕込み樽、搾り用具などの現物が多数並んで展示されていて迫力がある。





<農大OB酒造紹介>


最後のアトラクション展示は、東京農大を卒業した酒造家が自家の日本酒見本を一同に陳列したコーナーである。同学の醸造科学科を卒業した若い青年が蔵元となり酒造りに挑戦している様子が窺えて楽しい展示である。なお、応用生物科学部醸造科学科卒業生は「醸友会」を結成して交流を深めているようだ。
(展示された卒業酒造家は ・卒業生の蔵元紹介 | (nodai.ac.jp)として、インターネットで紹介されている。
♣ 最後にー農学の系譜と農大―

今回の訪問では、従来の農業のあり方が時代を追って変化し多様化している様子、農業教育が単なる農作物の生産技術から生命科学やバイオ、環境科学へ進化している姿、実学としての農業応用科学を実感できた。また、東京農大が、一途に「農」に軸を置いて成長してきた伝統と歴史が「食と農」の博物館によく反映されている。
<農学の歴史からみる江戸と明治>


振り返って農業科学の歴史をみると、江戸時代から「本草学」という形の植物・薬学、農法知識は相当幅広く広がっていたとみられる。ちなみに、貝原益軒は『大和本草』を著して日本の動植物、農産物の分類・解説を行い、宮崎安貞は著書「農業全書」によって、穀物、野菜などの栽培方法、家畜飼育方法などの農業技術の普及に努めている。しかし、科学的な知識に基づく「農学」が日本に根付いたのは明治以降のことである。北海道に招致された「札幌農学校」とその教育内容はこの嚆矢であった。この教育指導にあたったクラーク博士の功績は広く知られるところである。これと前後して、1878年(明治11年)、明治政府は東京に駒場農学校(後の東京大学農学部)を設置して、農学に関する総合教育・研究を開始している。この農学校講師として知られるのが船津伝次平、日本の在来農法を基礎に改良しながら、西洋農法の手法を折衷した「船津農法」の考案者といわれる。
<農学の歴史と農大>


民間では、先に触れたように、1891年、北海道開拓に関わった榎本武揚が「徳川育英会育英黌」農業科を設置、現在の東京農業大学農学教育の基礎を築いている。この初期の学長を務めたのが横井時敬で実践教育を主導した農学教育の先駆者である。横井は、米作の効率を高めた「水稲種子塩水選種法」の考案、大日本農会幹事、帝国大学農科大学教授などを歴任している。このように初期の明治政府にとって、生糸、茶などの輸出振興と食糧増産は、最も重要な政策課題の一つであり、西洋技術を応用した農業振興(勘農政策)、農業教育が非常に重視された。明治の設立になる東京農業大学が、その農学教育の一翼を担ったことがわかる。
その後の農学は、明治以降、優れた種を選抜して残していく「純系淘汰」や品種同士をかけ合わせる「交雑」による育種、化学薬品を使った除草、その手法に力が注がれた。また、大正時代には農業の機械化と省力化、昭和には、圃場の整備や水利の改良、栽培技術の向上などが進み作物の多様化、作物収量水準も増加してきている。
<近年の農業課題と農業科学教育>


一方近年では、農薬の過剰投入による作物への汚染、土壌へ悪影響なども指摘されるなかで有機栽培、無農薬作法なども技術的課題として浮上している。また、農業人口の減少や高齢化、米作減反といった農政社会問題、海外取引など農業の国際的な課題、地球温暖化と農業、環境問題も山積している。したがって、農学も農業教育も単なる技術問題に留まらない広がりを持ってきているのが現状である。
東京農業大学の教育、研究体制の推移を見ると、これら時代時代の変化に即応して拡充、進化していることが学部構成の変容にもみてとれる。今回、「農大の「食と農」の博物館を見学して、現在の社会と農業のあり方、農学の時代変化と歴史の一端を把握できたような気がする。見学のよい機会を得たと実感した。なお、筑波には同様の課題に取り組む「食と農」の科学館という施設があると聞くので、近いうちに訪問してみようと思う。
(了)
参考とした資料:
- 東京農業大学案内書
- 「食と農」の博物館 | 東京農業大学 (nodai.ac.jp) https://www.nodai.ac.jp/campus/facilities/syokutonou/
- 二母性マウス「かぐや」 | 東京農業大学 (nodai.ac.jp)
- 世界初の二母性マウス誕生 | 東京農業大学 (nodai.ac.jp)
- 材鑑標本 | 東京農業大学 (nodai.ac.jp)
- 農大の歴史 | 東京農業大学 (nodai.ac.jp)
- 鶏の剥製標本コレクション | 東京農業大学 (nodai.ac.jp)
- 453722ded1d798ab91959c04188f68ce.pdf (nodai.ac.jp) 同上目録
- 日本の酒器 | 東京農業大学 (nodai.ac.jp)
- 村の古民家 | 東京農業大学 (nodai.ac.jp)
- 古農具 | 東京農業大学 (nodai.ac.jp)
- 卒業生の蔵元紹介 | 東京農業大学 (nodai.ac.jp)
- 横井時敬 – Wikipedia
- 日本の農政学の系譜(農林金融2019年08月号 (nochuri.co.jp)
- 近代農政史上における明治30年前後(1) 須々田,黎吉(食料・農業・農村経済学会 121号-)
- 本草学とは–本草学 – Wikipedia
- C級スポット探索日記(「食と農」の博物館)https://lovingcspot.hatenablog.com/entry/2018/07/21/01040
- 博物学者として官僚として/田中芳男(国立科学博物館)
- 特集:東京農業大学創立130周年】鼎談:農学の進化と実践重ね未来創造(1)