「自転車文化センター」で自転車のルーツを探る (Part 1)

  ―自転車の歴史展開と社会生活への浸透―

社会のなかの自転車を扱う雑誌

 自転車は今も昔も変わらず手軽で便利な乗り物である。全国の自転車保有数は7000万台を越え、多くの家庭の玄関、店先、あるいは軒下、物置には必ずといってよいほど何台かの自転車が置かれている。自転車は買い物、子供の送り迎え、散歩や近場の旅行にはなくてならない生活財である。また、最近ではスポーツサイクルの普及が目立ち、自転車競技も盛んである。このように便利であるが人間の脚力のみを動力源とする一見シンプルな自転車も、自動車、バイクなど動力車両の発展の技術的基礎をなしていることは注目する必要があろう。 

 自転車に使われる車軸やフレーム、ギア、タイヤ、ブレーキなどの技術開発は、これまでの機械技術の発展に大きく寄与してきているのではないかと思う。このような自転車が、どのように生まれ発展していったのか、構造や機能はどうか、用途はどのように変化してきたのか、産業としての展開どうだったか、など非常に興味ある課題にあふれている。今回、こういった期待と疑問をもって、東京・目黒にある「自転車文化センター」を訪問し考えてみた。この記事は、これらを踏まえた簡単な記録である。

♣ 自転車文化センターと科学技術館の資料と展示

<自転車文化センター>

自転車文化センターの展示室

  自転車文化センターは、目黒駅に近いオフィスビルの一階に設けられた施設で、自転車の普及、社会的役割の広報を目的としている。内外の自転車に関する書籍約一万冊を所蔵しているほか、狭いスペースではあるが歴史的な自転車を展示するギャラリーが設けられている。館内展示は自由に見学できるほか、会員登録をすれば、館内図書を自由に閲覧できる。自転車や自転車競技の歴史、自転車産業、自転車の社会的役割や魅力、文化などを身近に知るにはことのできる魅力がある施設である。なお、同センターは外部展示室として科学技術館の中に「自転車ひろば」を設けていることを付記しておく。

○自転車文化センターの所在地:〒141-0021東京都品川区上大崎3丁目3-1 ·

<科学技術館「自転車ひろば」>

「自転車ひろば」の展示室

  科学技術館は、日本の科学技術や産業技術に関する知識を広く普及・啓発するため、1964年に設立された。この博物館は、現在、青少年に対する科学の実地教育の場として生かされているほか、一般の科学、産業知識普及の施設として広く利用されている。館内では、原子力から造船、機械、自動車、生物、化学まで広い範囲の展示を行っており、今までに一千万人以上の訪問者をえているポピュラーな博物館である。この2階フロアの一角に設けられているのが「自転車ひろば」である。そこには、自転車の歴史を示す展示、自転車技術の展開、部品の進化、社会変化と自転車など豊富なテーマの展示がわかりやすく配置してあり興味深い内容となっている。また、解説パネルでは、自転車の発達年表、自転車のスタイルや部品の変遷、最近の電動自転車の仕組みなどが説明されていて自転車に関する広い知識を得ることができる。(このブログでは、この科学技術館で入手した資料や展示写真などの多くを活用させていただいている)

○科学技術館の所在地:
 東京都千代田区北の丸公園2-1、電話· 03-3212-8544

♣ 自転車の起源と変遷の歴史 

伝説の時ブラック伯爵の自転車
世界で初めての自転車「ドライジーネ」

 前後に車輪を並べて二輪走る“自転車”が歴史上初めて登場したのはドイツにおいてであった。1817年にカール・フォン・ドライスが発明したとされる。この乗り物は「ドライジーネ」とよばれ、ステアリングはついているが、木製でペダルもクランクもなく地面を足で蹴って走行するものであった。これ以前、フランスのシブラック伯爵が、1790年代、動物をかたどった二輪車を作り遊戯として使ったとの説もあるが確認されていない。このドライジーネは、発明当時、馬車と走行競争するなど話題を呼んだ乗り物であったが、普及はしなかった。 

 次に登場したのは「ミショー型」と呼ばれる前輪にペダルを取り付けた自転車であった。1860年にフランスのピエール・ミショー、エルネスト・ミショー親子によって発明された。このタイプは愛好家の間でも非常に魅力ある乗り物と好評で、富裕社会層を中心に利用広まったとされている。

 

 そして、1880年代になると、スピードを重視した新しい型のオーディナリー型が登場する。このタイプは、ミショーに比べ速さを求めたため前輪を大きくし、ペダル1回転で進む距離を長くしたものだった。デザイン的にも評価が高く、各種のバリエーションを生んで世界中に普及が広がった。日本でも明治初期に“バイシクル”として紹介されている。これは西欧化を進める社会風潮の中で新聞にも取り上げられ、人力車と共に一種の風物詩になっていた。

一方、このスタイル転換の中で、構造的にフレームの軽量化、ステアリング、車軸、ブレーキなどの改良進んだことも見逃せない。 しかし、本当の意味で、自転車が現在に近い構造を持つようになったのは、チェーンによる後輪駆動を採用された以降のことといってよい。この車体構成の変化は、後に「セイフティ型」と呼ばれる自転車と発展し、より安全で乗り心地のよい実用的な自転車に進化していく。この基となったのは、イギリスのヘンリー・ローソンが、1879年、オーディナリー型にチェーンを使って後輪を駆動させる方式を考案したことによる。オーディナリー型は乗車位置が高く、前輪ブレーキなので転倒の危険が大きかった点を考慮したものだった。このセイフティ型は、その後、自転車の最も標準的なスタイルとして定着していくことになる。このセイフティ型の登場から多様な自転車のバリエーションが生まれ、時代が進むにつれ庶民の足として、またスポーツ用として世界中に広まることになる。

J..ダンロップ

一方、構造面で自転車の乗り心地や対衝撃感を大きく改善させたのはゴムタイヤの採用である。これはイギリスのジョン・ボイド・ダンロップが空気入りのゴムタイヤを開発したことによる。このタイヤは、その後、自転車だけでなく、あらゆる乗り物に採用され世界中に普及する革命的な構造部品となった。また、フリーホイール、チェンジギアの装着なども、セイフティ自転車の機能改善に大きく貢献したことが知られている。

 

 

 こうして標準型自転車の普及により自転車使用率は飛躍的に伸び、1900年代までに世界中の所有台数は数百万台に達したとされる。

また、自転車産業も大きく飛躍して、製造業者の数も増えた。イギリスでは、1800年代末、自転車メーカーの数が800社を越え、アメリカでも700社あまりの製造業者があったという。また、フランス、ドイツでも有力なメーカーが育っていった。この中には、後に、オートバイや自動車の有力部品メーカーに成長したものも多く生まれている。

♣ 日本における自転車の導入と展開

「三元車」自転車

  諸説あるものの、自転車が日本へ初めて伝わり、実際に輸入や製造が始まったのは明治初年といわれる。一人の日本人が明治3年に“自転車”を輸入し常用したという記録があるがはっきりしない。1872年(明治5年)には、貸自転車業者が横浜で“ミショー型”木製自転車を作り、自ら東京〜横浜間を6時間で走ったとの記録がのこっている。そして、明治9年、福島県の鈴木三元が三元車という前二輪の三輪自転車を開発した。この三元車は日本に現存する最古の国産自転車といわれ、改良の末、明治14年の第2回内国勧業博覧会に出品されている。

また、当時、輸入された自転車の多くは“オーディナリー型”であったが、これは富裕層向けの高価な遊び道具にすぎず一般に普及するには至らなかった。(明治初期に輸入されたオーディナリー型自転車のレプリカが、江戸東京博物館に人力車と共に明治初期の風物として展示されているので見ることができる)

 一方、現在の自転車の原形である安全型自転車(セイフティ型)の日本への輸入は1880年代から徐々に始まった。この自転車の普及と国産化を狙って登場したのが宮田製銃所宮田栄助)である。ここでは早くも1890年(明治23年)に国産第1号自転車を製作している。当時、宮田製銃所は陸軍向けに国産銃の製造をおこなっていて、伝来の鍛冶技術を応+用して自転車製作したとみられるのは興味深い。これが後に「宮田自転車」となる。

梶野仁之助

 これより先、1879年(明治12)年、横浜市の事業家梶野仁之助が自転車工場を設けて、木製の前輪駆動の2輪車、3輪車の製造を始め、後に内国勧業博受賞(28年)を受賞した記録も残っている。また、奈良県で岡本鉄工所を創業した岡本松蔵が、明治32年、自転車部品の製造と修理を開始、三年後に名古屋に工場を建設して岡本自転車製作所となり、「岡本ノーリツ号」のブランドで売り出した。さらに、高橋長吉が、明治35年、「ゼブラ自転車製作所」を設立して自転車生産に乗り出している。これらが初期の自動車メーカーのパイオニアたちであった。

 しかし、この時代。殆どの自転車はイギリス、ドイツ、アメリカからの輸入によるもので、日本メーカーは存在感が薄かった。ただ、まだ工業化の進んでいなかった明治日本で、新しい機械産業の担い手の一つとして成長していったことは評価できるであろう。

♣ セイフティ型以降の自転車の発展

 「セイフティ型」自転車登場以降、自転車の利用者、製造業者が増える中で、自転車の新しいバリ+エーションも多く生まれてきた。特に、自動車の技術革新が進んだ1950年代以降の変化が顕著である。日本を中心にして、この動向を見てみることにする。(この変化をよく示す展示が科学技術館「自転車ひろば」で観察できた)

荷台つき自転車(1950)
ギアM号(宮田自転車)

 日本のセイフティ(安全型)自転車では、街中の移動のほか、荷物の運搬や日本人の体格を考慮した日本独特の実用車が中心であった。そして、車体ががっしりして荷台もつけた自転車が最もなじみやすいスタイルだったのである。戦後、自転車の後尾にリヤカーをつけて荷物を運ぶ姿はよくみられた風景でもあった

輪タク(1949年頃 日本)
インドネシアの自転車タクシー(ベチャ)

 一方、自転車文化的には、燃料費もいらない人力による自転車と明治時代に登場した人力車を組み合わせた交通手段として、大正から昭和初期には輪タクが普及した。この交通手段は、広く東南アジアにも伝わり「リクショウ」「ベチャ」「サムロ」といった庶民の足となっていった歴史もある。また、第二次世界大戦後の物資不足の時代に「輪タク」は、再び登場し、人々の安価なタクシー代わりの乗り物となっている。

 また、戦後、自転車普及とその実用利用の増大につられ、自転車にモーターをつけて走らせる“自動二輪車”がうまれ、オートバイとして独自の発展を遂げた歴史も、自転車史の延長線上にあることも忘れてはならない点であろう。

 ともあれ、日本の高度成長を遂げた70年代後になると、スタイリッシュな「軽快車」が登場し若い人を中心に普及してくる。これは、時代の反映と日本人のライフスタイルと嗜好の変化に応じて作られた自転車の需要であった。技術的にもフレームと車輪の軽量化が可能になって扱いやすくなったことも大きい。このタイプは「シティサイクル」とも呼ばれ、その後、日常の交通手段やレジャーに用いる自転車として日本社会に定着し、今日に至っている。

<自転車車種の多様化と利用拡大>

一方、世界中で自転車レースが広がる中で、自転車のパーツ、フレームの技術革新も進み、新しいスタイルの自転車が次々に生まれてきた。まず、競技用のロードバイク、ラフな道路や山道を走破できるマウンテンバイク、オリンピックなどの競技にも使われる小さな車体のBMXの登場である。また、折りたたみ自転車も徐々に普及し始めている。この傾向を受け、日本でも、80年代以降。これら多様なスポーツ自転車の需要が拡大してきている。

ロードバイクの例、Orbea Orca

 このうち、ロードバイクは、カーボン・フレームの採用、部品の高度化などによって車体の軽量化を実現、高速走行を可能にしたものである。世界的なロードレース「ツールドフランス」でも用いられる自転車のタイプとなっている。欧米では1970年代から本格的な普及が始まっているが、日本ではやや遅れた普及となった。ただ、近年、競技用のほかツーリングなどに広く利用されるようになっている。

クロスカントリーマウンテンバイク

 マウンテンバイクは、山岳地帯などでもスリップや転倒しない耐衝撃性を備え、乗車姿勢の自由度等の向上を図った構造の自転車である。アメリカで1970年代、太いタイヤをつけ、急勾配の山を下りタイムを競った遊びが起源で普及した。日本でも、最近、アウトドアブームとともに認知度が増し、レジャー用、スポーツ用としてよく見かけるタイプである。各地でレースも行われている。

折り畳んだだ自転車(プリンプトン)

 折りたたみ自転車は、欧米で比較的早く開発・普及が始まったタイプである。第一次大戦期、空挺部隊で軍の展開用に使われたという。1980年代からは、自動車と共に旅行、都市間の移動などで多用されている。日本では、未だなじみが薄いようだ。また、小型の車輪を持つベニプロといったタイプも生まれている。

電動アシスト自転車

 このように、並行二輪によるセイフティ型自転車が生まれてから、多種多様な自転車が生まれ発展してきている姿は目を見張るばかりである。現在では、電動アシスト自転車が誕生するなど、さらなる技術革新が進んでいる。(最近では、新しいタイプの電動スクータ(電動バイク)、自転車ではないがキックボードなども生まれている)

(Part 1 了)
    → Part 2 : 自転車文化センターで自転車のルーツを探るー日本の自転車産業の軌跡と製造メーカーの動向ー に続く・・・・
      

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