北海道の開拓を促した屯田兵制と入植政策

― 札幌の「開拓の村」から見る北海道開拓の歩みと産業創造 (2」―

この項では、北海道開拓の村の資料などから、明治初期の開拓使の役割と屯田兵制、そして北海道への移住者の動向について考えてみた。

<ロシアの南下と「千人同心」の屯田入植>

千人同心

 初期の北海道開拓は「屯田兵」派遣から始まるが、江戸時代にもその先駆けがあったことが知られている。これが「八王子千人同心」である。
 ロシアは、18世紀後半頃から、蝦夷地と呼ばれた樺太、北海道方面に頻繁に出没して領土侵食への圧力を強めていた。また、ロシア兵士が日本人村を襲撃する事件なども頻発した。危機を感じた江戸幕府は、間宮林蔵、近藤重蔵といった幕臣を派遣して蝦夷地を探査、また、幕府直轄の松前奉行を置いて警備の強化をはかっている。この方針に沿って、本土の郷士や有志や農民兵士を蝦夷地に移住させる方針をとった。これに動員されたのが「八王子千人同心」である。

苫小牧の千人同心顕彰碑

 この“千人同心”は、江戸開府当初は街道警備で重用されたが、時代が進むと必要性が弱まっていた。 そこで幕府は、この土着郷士「同心」を蝦夷地に入植させ「屯田兵士」として警備と開拓事業に当たらせることにしたのである。 これに応じ、1800年(寛政12年)、千人同心組頭原半左衛門と弟新介は、師弟90人とともに、当時の蝦夷地、白糠(現・白糠町)、勇払(現・苫小牧市)に屯田兵として入植する。これが北海道開拓「屯田兵」の先駆けである。
 しかし、寒冷地での開拓は困難を極め、屯田兵入植の試みは無残な失敗に終わってしまう。入植した130名のうち30余名余が短期間に病気で死亡、40名余が帰郷せざるを得ない悲惨な結果となった。現在、苫小牧市には、この千人同心の苦難を偲ぶべく顕彰碑が建てられている。「屯田兵制」は、その後、明治政府による「開拓使」の下で本格化するが、江戸時代にも、このような入植があったことを銘記する必要があろう。

<屯田兵の制度化と移民入植者の奨励> 

黒田清隆
屯田兵の入植者

 明治初期の北海道開発の重点の一つは、未開地開拓を促進するための移住者の奨励と北方周辺の防備強化にあった。このため進められた政策が「屯田兵制」である。黒田清隆が開拓使長官となった時代、日本とロシアとの間で「樺太・千島交換条約」(1875)が結ばれ、日本は旧蝦夷地のうち樺太を放棄することになった。結果、北方の開拓政策は、現在の北海道地域に重点を絞って実施される方針となる。この状況下で、南下圧力を高めるロシアへの牽制と防衛、領土保全、そして、住民人口の増加と地域の生活確保が何よりも求められた。このため、1875年(明治8年)、明治政府は「屯田兵制度」を設けて、移住兵士に北方警備と開拓を当たらせた。これにより、1904年(明治37年)までに、全部で7,337名の 屯田兵 が37の兵村を形成し、地域の防衛警備、農業開発に従事したといわれる。

琴似屯田兵の碑
開拓の風景

 最初に、屯田兵が派遣された土地は、「琴似」(現在の札幌市西区内)で、旧会津藩士族ら東北、北陸地区など12道県から計240戸が入植したといわれる。いずれもが新政府に抵抗して戊辰戦争を戦った藩の出身者であったことは興味深い。その後も、新たに加わった士族の屯田兵は、石狩、美帆、旭川など各地に派遣され、開拓・警備に加わっている。これら屯田兵らは、それぞれに「兵村」を築き定着していったが、慣れない寒冷未開の地で苦難したことが知られている。しかし、この集団移住は初期の北海道開発に一定の役割を果たしたことは確かである。
 なお、初期の屯田兵の社会と生活の様子は、札幌市にある「琴似屯田歴史館 資料室」の詳しく載っているので参考になる。また、北海道開拓村のホームページの年表に入植経過などが乗っている。

<屯田兵制に先駆けた士族移住の開始とその後>

伊達邦成
旧岩間家農家住宅

 明治初期、「屯田兵」とは異なる方法で、いち早く北海道開拓と移住にむかった士族集団がある。彼らは「士族移住者」と呼ばれ、明治維新で領地を失った旧会津藩、仙台藩など東北藩指導者が率いた士族たちの集団移住である。また、廃藩置県による「家禄」処分などで貧窮した元藩士が、政府の「士族授産」政策の下で、北海道移住を志して集団入植を決意している。

北海道伊達市にある伊達神社

 まず、1870年(明治3年)、仙台藩伊達邦成率いる旧藩士220名が室蘭、有珠、幌別などに入植した。その後、仙台藩は、1881年までに、8回にわたり2600人あまりが移住を果たす。このため仙台藩の開拓に由来し、北海道道央には伊達市が生まれたことは、特筆してよいだろう。また、後者の士族授産の移住には、1878年頃からの旧名古屋藩、旧山口藩、旧加賀藩などの藩士による八雲、余市、釧路などへの入植があったことが伝えられている。
 北海道開拓村には、仙台藩亘理領ゆかりの「旧岩間家農家住宅」、徳島藩ゆかりの「旧武田商店」などが復元展示されている。

<士族集団移住から募集入植へ>

 北海道への開拓移民は、当初の屯田兵、藩主導の士族移住によるものから、明治の中期以降になると徐々に募集制による自主的な入植に重点が移っていく。 この時期以降、北海道への移住を増加の要因となったのは、「松方デフレ」を契機とする繭価や米価などの農産価格の下落、そして農村部の窮乏であった。また、相次ぐ自然災害もこれに拍車をかけた。彼らは都市部に流入して工場の労働力となるか、北海道移住または海外移住に活路を求めるかを迫られる形となった。統計では、これら農村部からの移住戸数は、1886年から1922年までの37ヶ年間に総計で55万1036戸に達したという。 この中には、北海道新開地に夢を託して移住した例もあるが、多くは農村の疲弊と貧困、または災害、冷害などによりやむを得ず入植したものが多い。富山県西砺波郡広瀬村から石狩へ移住してケースなども見える。

 このうち、目立つのは、1889年、奈良県十津川村豪雨被害で全村民が空知(現新十津川町)に移住したケース、1890年、足尾銅山鉱毒被害により廃村になった栃木県谷中村住民が常呂郡サロマベツ原野(鐺沸村)に入植したケース、1891年、濃尾大震災により三重県住民が空知郡幌向への移住を迫られたケースなどがみられる。

<多様な選択移住の発生と郷土社会形成>

入植を促すシーン

 また、この時期、農業移民のほかに漁民や商工業者、鉱山や土木工事の労働者などさまざま職種の移民者が、いろんな理由で北海道への移住を決意し入植したことが知られている。このため北海道は、1893年以降の明治年間、毎年5万人前後の人口増加率を示し住民の数は急激に増えた。

旧樋口家農家住宅

 ちなみに、北海道には「越後」「信濃」「伊勢」「出雲」などの国名、「礪波」などの郡名、その他「庄内」「金沢」「吉野」「新十津川などの出身地の名を付けた地名がたくさんある。郷里を同じくした移住者が指導者を中心にまとまって移住し、互いに助け合って開拓に励んだことを示していると思われる。彼らは、郷土の文化や習慣、信仰などを大切に保持して入植地社会に潤いをもたらした。諏訪大社の分霊「旧信濃神社」の存在などが、このことを示している。

「開拓の村」には、これら入植した住民住居の復元家屋が展示されていて、当時の生活を振り返ることができる。

富山県から移住した「旧樋口家農家住宅」、長野県からの農家旧河西家米倉」、秋田県からの「旧秋山家漁家住宅」、浄土宗の「篠路山龍雲寺」、諏訪地方の「旧信濃神社」などがみられる。

<会社組織や宗教団体による集団移住>  

 

依田勉三
北越植民社事務所(大正7年頃)

明治の中頃以降、社会条件が整うようになると、農場を経営する開墾会社が多数成立して農民を募集して移住を促進させる動きも目立つようになる。1879年(明治12年)設立の「開進社」、1882年の「興産社」、1983年の「晩成社」、1886年の「北越植民社」の活動などが知られている。このうち晩成社は依田勉三が設立、1883年(明治16年)、十勝に入植して農地開発のほか酪農事業にも従事している。また、北越植民社は、1886年(明治19年)、野幌地区に農民を募集して農場を開いている。 

 一方、宗教団体による北海道入植も増加している。まず、キリスト教系の「赤心社」は、1881年(明治14年)、兵庫県の「赤心社」による日高の西舎、荻伏への入植、日蓮宗徒による静内郡碧薬村への入植移住、1909年(明治44年)金光教信者の紋別郡滝の上原野への移住などが知られている。

<商業、専門店、製作所、旅館などを営む市街地移住層の増加>

旧島松駅逓所

 北海道への入植・移住者人口が増え、「駅逓」などにより地方との交通・物流網が整備されてくると各拠点で市街地が形成されるようになる。札幌はもちろん、小樽、帯広、釧路、旭川などでは、明治中期頃から、商業者、酒造業者、旅館経営者、飲食業者、そして理髪業などの専門業者が、都市部に移住して商売をはじめるケースが増えてくる。

 北海道開拓の村では、この移住者の店舗・住宅を移設・復元して、当時の市民生活の様子を再現している。1885年頃(明治18年)頃、石川県から小樽へ移住して「三〼そば屋」を開いた例、回船業を営んでいた竹井商店が泊村大字茅沼村ではじめた酒造店(旧竹井商店酒造部)、帯広で菓子の製造販売を始めた「旧大石三省堂支店」、明治30年前後、旭川で開業した「旧来正旅館」、兵庫県出身の宮大工が妹背牛町で開業した「旧藤原車橇製作所」、明治31年(1898)に旭川で創業された[旧近藤染舗]などが見られる。また、入植者の流入が落ち着いた明治末期から大正年間になると理髪店、写真店、新聞社なども市街地に誕生してくる。

 さらに、明治政府の開発政策が進むと、産業開発に関わるエンジニア、医師や官僚などの移住が増加して都市部での社会環境も整ってくる。ちなみに、北海道開発の村では、明治35年(1902)に古平町に開設した病院「近藤医院」、明治19年(1886)に島歌誕生した「島唄郵便局」、札幌の山本地区にあった消防団の詰め所「旧山本消防組番屋」、明治18年(1885)に設立した私立北海英語学校「旧北海中学校」校舎が展示されている。また、開拓時代、気象観測・測量・通訳などの分野で活躍した福士成豊の札幌住宅、作家有島武郎が住んだ住宅などが復元移設され、その事績が紹介されている。当時の北海道開拓時代の社会生活内容を窺わせる内容である。

 さらに、開拓時代、移住者の荷物搬送、郵便、宿泊提供などで遠隔地交易の役割を担った“駅逓”「旧ソーケシュオマベツ駅逓所」の復元家屋が展示されているのも興味深い。

<開拓移民の意味するもの>

北海道開拓の絵はがき資料館より

 屯田兵と士族移民にはじまる明治の北海道開拓は、北方への懸念と国防、国内対策と連動しつつ、自主的入植、貧窮農民の移住、会社単位の移住、宗教団体主導の移住と時代を反映する形で進められた。政府からの支援策や環境整備も講じられたが、未開の土地での慣れない入植で多くの困難をともなう開拓だったことは想像に難くない。この状況は北海道開拓関係の各種資料や開拓の村の展示にもよく示されている。しかし、時代が進み移民者の人口が増えるにつれ、各地で地域社会が形成され、農業や漁業、養蚕、酪農など産業の眼が育ちはじめたことも確かである。

旭川の農地開発と米作り

 北海道各地に、「越後」「信濃」「伊勢」「出雲」「吉野」「新十津川」など出身地の地名が多く刻まれていることは、この証左であろう。これら地域形成に、開拓使はじめ北海道庁の環境整備、殖産政策が一定の効果があったともいえる。この結果、移住者の中には、農地開発に成功したもの、市街地での商機を見いだしたもの、会社を設立して事業を広げたものなども生まれている。一方、開拓地での労苦や経済的困難から没落して帰郷するもの、転地や職替えを迫られたものも依然数多かった。 このように北海道の開拓と社会創成は、まだら模様を描きながら進行していったとみることができる。
  これまで北海道開拓の村の展示を参照しながら、開拓移民の動向と変化をみてきた。そこには様々な人間模様と社会背景が反映されていることも了解できる。

  最後になるが、明治以降のこの開拓移住の増加の影で、もともと北海道に住んでいたアイヌの人々の生活がどのように変わっていったのかも気になるところである。昔から住んでいた生活空間が狭められ、人口が減り、生業を失い、文化も後退することになったことは傷まれる。この問題は原住民と新移民者の関係という普遍的な命題として受け止めねばならないだろう。(これについては、札幌の北海道博物館の展示「アイヌ民族の歴史と文化」で考えてみたい)

 以上、「北海道開拓の村」の展示を参照しつつ、開拓使の役割と北海道移住の課題を紹介してみた。次項では、北海道の産業開発の歩みと開拓使・北海道庁の殖産政策について取り上げてみたい。

(この項 了)

参考とした資料:

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