― 「開拓の村」から見た北海道開拓の歩みと産業創造 (3)―
この項では、まず、明治初期の開拓使設置の背景と北海道開拓政策の推移について考えてみる。
<開拓使の設置と役割>

江戸時代末期、日米和親条約が成立、1854年に幕府は下田と箱館の開港を決めた。その後、江戸幕府の混乱を経て崩壊、時代は明治へと移る。新政府は、従来の蝦夷地開発を引継ぎ、北方防備と北海道開拓を政府の重点政策の一つと位置づけた。このため設置されたのが「開拓使」である。
初代の開拓使長官は、蝦夷地の状況を懸念していた佐賀藩主の鍋島直正である。当初、開拓使の本部は、開港したばかりの箱館(函館)に置かれる計画であった。しかし、鍋島の下で主席となった島義勇は、箱館は全道をカバーするに不便だとして、道央の石狩川流域を開発の中心と定めて開拓使本部設置と街づくりをはじめる。そして、1971年(明治4年)に札幌に開拓使庁が完成し、本格的な開拓政策が開始された。この時の開拓使庁が、現在、北海道開拓の村に復元建設された建物である。開拓使長官は、鍋島から東久世に移り、三代目に黒田清隆が就任、彼の主導の下で本格的な開拓政策が実行に移されることとなる。

黒田は、「開拓使10年計画」を作成、この構想の下に開拓の準備を進めた。計画は、非常に大規模なもので、移住民の受入れ、陸海路の開削や鉄道の敷設、石炭開発や農水産物を加工する工場の設置なども含まれていた。しかし、開拓使の使命の中で最も重視されたのは、北方の警備強化であるである。このため創設されたのが「屯田兵制」と士族の移住促進策であった。これにより北方の兵備と防衛を充実させ、且つ北海道の未開地の開墾を促すことを狙いとしていた。この背景には、屯田兵による入植促進で、旧幕府軍藩士の鎮撫と家禄を失った士族の授産があったといわれている。
<屯田兵制と産業育成政策の構築>

最初の屯田兵は、1875年(明治8年)、前項で述べたとおり札幌郡琴似村への入植をした元会津藩士である。これを皮切りに大量の屯田兵が全道各地への入植を開始、未開拓地の開墾や道路・水路等の開発等に従事し、北辺防衛に当たっている。


一方、北海道の産業開発促進は当初から重要なテーマであった。この開拓・産業政策の構築に当たって、黒田は、アメリカの新開地開拓をモデルとし、米国の農務長官ホーレス・ケプロンを顧問として招致した。ケプロンは、来日して北海道の視察結果を報告書にまとめて政府に提出、寒冷地に適した北海道開拓促進と政府主導の産業創設・育成を実施すべきと進言している。

また、開発のための第一歩として調査研究と教育、模範工場・模範農場設置の重要性を指摘した。そして、事業の実施に当たっては、多くの外国人専門家を招致して、技術指導に当たらせる重視することとした。こうして、開拓使の主導の下で多くのプロジェクトが実施されていったのである。この中で、最も大きな成果を上げたのが札幌農学校、開拓使麦酒醸造所の設置といわれている。

札幌農学校については、マサチューセッツ農科大学学長のW.S.クラークが招かれた。彼の滞在期間は短かったが、若い学生に多大な影響をもたらしただけでなく、北海道農業の進展にも大きな貢献をなした。また、米国の牧場主エドウィン・ダンは、北海道に酪農、畜産業を定着させるため多大な貢献をしている。(これについては、北海道大学図書館訪問の中で触れる予定) また、開拓使麦酒醸造所は、別な報告でも触れたように、日本の麦酒産業の草分けともなっている。
<開拓使から北海道開発庁へ>


さらに、1887年(明治10年)には札幌に開拓使工業局が設けられ、鉄道建設や鉱山開発、ビールや葡萄酒、缶詰の生産などの殖産のための計画立案も行っている。この開拓使工業局庁舎(重要文化財に指定)は、現在、「北海道開拓の村」に移設されていて、内部には、工業局が手がけた事業の概要が展示され、当時の殖産政策の内容がよくわかる。 このように、開拓使時代には、北海道に多くの産業が芽生え、また、移民の受入れによって地域社会が形成され、人口が当初の5万8,000人あまりから 22 万人へと増加している。 かくして、開拓使庁は、1886年(明治15年2月)、「開拓 10 年計画」が終了したのを契機に廃止され、その役割は、新しく設けられた北海道庁に引き継がれていった。
ちなみに、「北海道開拓の村」には、開拓使関係の建造物として、次のようなものが設置されている。旧開拓使札幌本庁舎、旧開拓使爾志通洋造家、旧開拓使工業局庁舎、旧札幌農学校寄宿舎(恵迪寮)。
<開拓使の下で実施された産業育成策>

では、開拓使の主導で実施された幾つかの産業育成の具体例を見てみよう。
前述したように、北海道の産業開発は開拓使設置と黒田の長官就任によって開拓のシナリオが描かれ実施されていった。まず、黒田は米国農務長官ケプロンに助言を求め、3回にわたる道内の視察・調査でまとめられた「ケプロン報告書」を指針として北海道開拓の基本を定めたあと、多くの御雇外国人を招いて開発の技術指導に当たらせた。札幌農学校、開拓使麦酒醸造所の設置などはこの具体例だが、そのほかに北海道で潜在性が高いとされた酪農、炭鉱、そして地場産業の育成も重要な柱となった。これらのうち、札幌に築かれた官営模範工業所、幌内の炭鉱開発、各地の酪農振興を紹介してみる。



まず、札幌館内に建設された「工業地」についてみると、札幌市内の一角を工業課管理地に指定し、米国輸入の水力・蒸気機械を設置した機械工場が建設された。これを手始めに、機械・器具製造、農作物や麻・繭などの札幌紡織所・加工工場などの官営工場が設立される。続いて製紙所、製油所、馬具製造所、製革所、製網所などが設置され多様な工業団地を構成されるようになる。近くの創成川の水を引いた水車器械所、煉鉄所(鍛工所、鋳造所、木工所などの建設も進んでいったことも特筆される。


これら開拓使模範工場は札幌のほか、開拓使工業局の指導課で函館、室蘭、石狩、根室、択捉島など各地に小規模ながら40以上も建設されたといわれている。官営工場の建設・経営の指導者には、N・W・ホルト(器械運転)、マッティアス・ワーブ(革鞣師)、ユリセス・S・トリート(魚肉缶詰製造・鮭鱒孵化)などのアメリカ人技術者が指導にあたった。
しかし、概して営業成績は上がらず、単なる技術模範工場にとどまるものだったという指摘もある。しかし、これら官営工場は、後に民営化されることで変貌を遂げ成長したものも出てきているのは否めない。例えば、「北海道製麻株式会社」(明治20年)、「北海道製糖工場」(明治23年)、「札幌第一味噌醤油製造所」などが例としてあげられている。この札幌の「工業団地」については、開拓使工業開発局建物のホールに、団地の立体模型、実際に製作された工業品サンプル、設備、商標などが展示されているので参考になる。
<開拓使による幌内炭鉱の開発>


炭鉱開発も開拓使の事業として重要視され発展していったプロジェクト一つである。米国から招聘された鉱山学者ライマンは、1873年から(明治6年)年から北海道一円の詳細な地質調査を実施した。ライマンは、この調査をもとに、日本最大規模となる石狩炭田(空知炭田・夕張炭田)の存在をつきとめた。なかでも幌内付近の石炭埋蔵量がきわめて豊富であることから、この地における開坑を献言し、1879(明治12年)北海道の近代炭鉱の先駆けとなる「官営幌内炭鉱」が開鉱させている。

石炭産業は、新たな資源、鉄鋼業の原料や動力の燃料エネルギー源として、明治以降、日本の産業発展において最も重視されたものの一つだった。それだけに、北海道炭鉱の開発は、日本全体にとっても、その後の産業振興に重要な役割を担うことは必然であった。また、幌内炭鉱の開発に伴って「官営幌内鉄道」が開業したことも大きい。これにより、石炭運搬が容易になっただけでなく、道内の交通が促進されて開発促進に大いに役立った。
<酪農王国北海道の基礎を築いた開拓使の酪農>

今日、酪農は北海道の主要産業の一つであり、北海道は酪農王国とも称される。この基を作ったのは外国人専門家を招いて振興させた開拓使の酪農事業であった。

日本政府の招請によりオハイオ州で牧場経営をしていたエドウィン・ダンが、1873年(明5年)、畜産技術指導のために来日する。これが畜産、酪農振興の第一歩であった。その後、1876年、ダンは北海道の「札幌官園」に赴任、「真駒内牧牛場」の建設に着手し成功に導く。また、同地に搾乳場、乳製品加工場、用水路建設などを設け、酪農・牧場の基礎を固めるなど、北海道酪農業の創設に大きく貢献している。当時、真駒内の牛舎には牛107頭、豚40頭、馬は農耕用・乗馬用あわせて10数頭を飼育しており、北海道ではじめて牧畜・酪農を根付かせたといわれる。


その後、1882年、開拓使の廃止により真駒内牧牛場は農商務省所管となり、ダンは退任、彼の指導を受けた札幌農学校2期生の町村金弥が事業を引き継ぐことになる。はじめて、外国人から経営運営の主体が日本人技術者の手に移ったのである。また、町村の招きで北海道入りした宇都宮仙太郎は。1891年、「宇都宮牧場」を開設、搾乳業に着手して「札幌牛乳搾取業組合」を設立する。これが後の「雪印乳業」の基となったといわれる。

ちなみに、明治初年から20年頃までが「官営畜産時代」、明治20年代は「地主的大牧場・搾乳業」の発展期」と呼ばれる。開拓使が廃止され、牧畜関係の施設も民営化が進むと、北海道での牧畜業の可能性が広く認識されるようになり、本州の資本も酪農に参入して北海道での牧場経営、畜産乳業の大きな発展が見られる。ちなみに、「根釧パイロットファーム」、「町村農場(北海道江別市)」、「北海道乳業」などの例がある。 かくして、開拓使を嚆矢とする官営の牧畜経営は、大正時代にはピークを迎え、日本の食文化の変化と共に、北海道の酪農業は大きく躍進した。
北海道開拓の村の展示建造物の中にも、大正時代に牧場を築いて酪農を成功させた旧小川家の牧舎が展示されている。
(この章 了)
参考とした資料:
- 開拓の村とは | 北海道開拓の村 (kaitaku.or.jp)
- 北海道の開拓と移民https://www.kaitaku.or.jp/about/immigrants/
- 北海道開拓の歴史と年表https://www.kaitaku.or.jp/assets/pdf/about/history.pdf
- 明治維新と北海道開拓使―明治の礎・北海道開拓―水土の礎 (suido-shizue.jp) https://www.suido-ishizue.jp/kindai/hokkaido/02.html
- 私たちの北海道史―開拓使時代― (coocan.jp) http://ktymtskz.my.coocan.jp/A/hokkai3.htm#0
- 「札幌」の誕生(探検コム)https://tanken.com/sapporo.html
- 北海道開拓期の官営工場設置から民営工場の建設へwww.homas.sakura.ne.jp/hokkaido/sub29.html
- 北海道開発局開局70年|北海道開発のあゆみ (mlit.go.jp)
- 北海道開拓政策の変遷 (mydns.jp)
- ―札幌市東苗穂地区の産業遺産群(その1)「福山醸造」の創業と発展の歴史―
- 炭鉱遺産に観る、近代北海道の姿|特集|北海道マガジン「カイ」 (kai-hokkaido.com)
- 「官営幌内鉄道」と「北海道炭礦鉄道」について | 北海道の歴史 (hokkaido-history.jp)
- 北海道農業・酪農の基礎を築いた先駆者たちの足跡とその業績homas66.pdf (sakura.ne.jp)
- 北海道酪農の黎明|沿革|雪印メグミルク株式会社 (meg-snow.com)
- 酪農王国・北海道の始まり-根釧パイロットファームhttps://www.hkd.mlit.go.jp/ky/ki/kouhou/70th/history/03-02.html#chapter-1
- 明治期以降に開設され、現存する牧場の歴史的・産業遺産的価値 000152701.pdf (alic.go.jp)
- 移民の進展と大農場の形成 ―明治の礎・北海道開拓―水土の礎 (suido-ishizue.jp)