東京・文京区の「東京都⽔道歴史館」を訪問

   ―東京の都市⽔道のルーツ ”江⼾の上⽔”と現代水道システムを解説展示ー

東京都水道歴史館とは

Water M- illust 09 19世紀江戸の人口はすでに百万を超えていたという。この巨大な人口と市民生活Water M- overview 01を支えた用水のネットワークは他の都市では類例を見ないほど整備されたたものであった。この江戸期の給水技術から現代の水道システムに至るまでの歴史を伝える博物館が「東京水道歴史館」でWater M- overview 04ある。先日、この歴史館を訪ねてみた。展示は、「水」の大切さとその利水開発に取り組んできた人間の努力と知恵を十分に感じさせてくれるものだった。
これはその訪問記録。

○東京都水道歴史館所在地:〒113-0033 東京都文京区本郷二丁目7番地1号
HP: https://www.suidorekishi.jp/information.html

♣ 水道歴史館の沿革

Water M- illust 03 「東京都水道歴史館」は、1995年、江戸・東京の水道400年の歴史を紹介する目Water M- overview 05的で、本郷の給水施設(東京都文京区)に併設して作られた。この施設は、旧淀橋浄水場の「水道参考館」(1898)、「水道記念館」(1884-)を経て、現在の「歴史館」となった。施設充実のため、2009年には大幅なリニューアルも行っている。

Water M- Edo Johsui 12 資料館では、様々な歴史資料が展示されていた。たとえば、17世紀の江戸・神田上水の開発跡、玉川上水の整備の様子、江戸市中の「上水」供給のシステム、明治以降の「近代水道」への進化、現代に至る水源確保と浄水技術の進歩の歴史を実物大の模型やWater M- Edo Johsui 10歴史資料、発掘物や歴史地図、ジオラマ、年表、映像などが紹介されている。特に、発掘した江戸期の木樋、石樋、井戸桶の展示、明治期の初期水道栓資料や浄化装置の現物展示が見事である。研究者のための図書館も充実している。開館以来すでに60万人以上が見学に訪れているという話である。

♣ 江戸期にみえる水道開発の歴史と技術

Water M- illust 12 世界史の上では紀元前後のローマの水道が有名であるが、日本の本格的な水道の建Water M- Meiji 11設は、北条氏康の「小田原早川水道」(1540s)初めてという話である。その後、1590年、江戸に入府した徳川家康は、江戸城下を整えるため、沿岸の埋め立て(日比谷入江)、堀の開削、河川改修に加えて、市中の生活用水を確保するため「上水」開発を積極的に行った。

Water M- illust 13 当初、小石川に上水路を作り城下に水を供給していたが、これが神田上水に拡張され、江戸初期の浄水供給システムとなった。これは、井の頭池を水源とし、これを関口村で堰き止め、水戸藩邸に導入、神田川に架水橋Water M- Edo Johsui 09(懸樋)で渡して江戸市中に配水するというものであった。

この神田上水は江戸期を通じて使用されることとなる。現在、これは、お茶の水付近の懸樋の様子は浮世絵にも描かWater M- Edo Johsui 05れ、「歴史館」でも模型が展示されている。この上水は、地形の高低差をサイフォンの原理で通水するシステムなっていて当時の技術力の高さをよく示しているという。

神田川上水建設の後、江戸の人口増大による需要の増加で新たな水Water M- Tamagawa 05路の確保が求められ、この水源として多摩川が選ばれ、1653年、民間町人、玉川庄右衛門、清右衛門兄弟が工事の請負を願い出て、「玉川上水」が建設の建設が開始される。これは、江戸から遠く離れた羽村にWater M- Tamagawa 01多摩川の取水口を作り、江戸市中の「四谷木戸」まで、長Water M- Tamagawa 02い43キロを高低差の少ない地形条件の中で遙か開削するというものであった。当時は、工事機材が少なく技術的にも非常に困難な開削工事であったとおもわれる。(この工事記録が歴史館の中には「重要文化財」として展示されている」)

Water M- Tamagawa 06 この玉川上水は、神田上水と同じように四谷から、地下水道となり市内のあらゆる場所にも配水された。このネットワークは世界にまれに見る精密さを誇っており、主として地下Water M- Edo Johsui 11に埋め込んだ木樋が縦横に張り巡らされていた。また、水路には各所に配水や水質管理所ももうけられていて効率的に運用されていた。市中に地下配水された水は各町内の井戸で汲み上げ共同で使用する形をとっていたようで水道料金も細かく定められていたという。 この多摩川用水は、また、江Water M- Edo Johsui 14戸近郊で灌漑用水としても使われ幕府の新田開発にも利用されている。

資料館では、これら江戸時代に実際に使われた「上水」の木樋と配水図、そして、実際の井戸の模型が展示されておWater M- Edo Johsui 16.JPGり、当時の水路建設技術と管理システムの高さを実感できる。こうして生活用水が確保されていたが故に、江戸は百万都市としての機能を維持できていたと考えられる。ロンドンやパリの水道システムはよく知られるが、同時期のヨーロッパにおいても、これだけの水道施設を持っていたのは珍しいといわれている。

♣ 江戸の上水から近代水道の建設

Water M- illust 14 しかし、江戸時代が終わり、江戸が東京に変わるに従って水道施設も新しい対Water M- overview 03応を迫られる。「江戸上水」は江戸末期になると木樋の腐朽化が進み、さらに幕府の崩壊で水路管理が不十分となったことから、たびたびコレラの大流行などが発生し、衛生上問題が深刻となってきていた。

このため、明治政府は、浄化水準の高く大量に水を供給できる近代水道の建設を急いだ。政府は明治Water M- overview 067年水道改正委員会を作り、明治10年(1877)「東京府水道改正設計書」を作成して近代水道システムを建設することを決定する。Water M- Meiji 04
これは、原水を沈殿、ろ過して鉄管で圧送するというもので、東京近代水道の原形がここにようやく示された。また、東京府は、近代水道創設の検討を進める一方、既存の木樋、上水路の補修を行い、水源汚染の取締りを強化するなどして、飲料水の安全確保に腐心した様子がうかがえる。

Water M- Meiji 07この西洋技術を導入した明治期の近代水道建設においては、英国技師のパーマーとハルトンの貢献が大きかったという。設計案は、玉川上水路により多摩川の水を千駄ヶ谷村の浄水工場に導き、沈殿・ろ過した後、麻布及び小石川の給水工場へ送水し、浄水工場に併設された給水工場を含めて3箇所の給水工場からポンプ圧送あるいは自然流下で市内に配水するものであった。Water M- Meiji 12

また実施に当たっては、東京市水道改良事務所の技師・中島鋭治によWater M- Meiji 03.JPGって技術検証がなされ、浄水工場設置場所を淀橋町に、給水工場設置場所を本郷及び芝へとすることで着工されWater M- Meiji 05た。このような経過から、両外国技師、および中島は、東京の近代水道の最大の貢献者とも称され、資料館には、彼らの肖像とともに、当時の水道地図、使用された鉄製の水道管、水道栓などが、近代水道建設のモニュメント・水道歴史遺産として実物展示してある。施設の給水能力は日量17 万立方メートルでしたが、建設の途中で増強され、完成時には日量24 万立方メートルであった。

♣ 首都東京の発展と水道網の整備

Water M- overview 07 しかし、首都となった東京は急速な人口増加が続き、自然流水の利用ではすぐに追いつかなくなる。これらの対策として、「村山貯水池」ダムの建設、境浄水場の施設能力Water M- Dam 01を増強、水道路の拡張が企図される(1911)。拡張に当たっては多くの障害と技術的挑戦があったとされ、資料館の展示では、これらが年代ごとの土木技術進展の詳細な説明と使用した機械器具の実物資料とともに展示されている。

Water M- Meiji 10 近代水道の整備は、長い目で見ると、1920年代の関東大震災による甚大な被害、続く洪水、また、40年代の太平洋戦争による災害などにより、東京の水道路は時に毀滅的な被害を受けた歴史がある。しかし、これら困難を克服する過程で水利土木技術も進展し、小河Water M- Dam 02内ダムの建設、東村山浄水所の建設、金町浄水場、砧下浄水場の増強など水道網整備が逐次はかられていった。また戦後には、利根川からの取水開始、これにともなう朝霞、三郷など浄水場事業開始、金町浄水場の増強などの背えWater M- Meiji 13えい美事業が今も続いている。そして、現在では、現在では日量696 万立方メートルで世界有数の水道に発展している。Water M- Meiji 14

この発展の起点となった淀橋浄水場(明治31年(1898)設立)は、1965年に東村山に移転、その跡地は再開発され高層ビルの建ち並ぶ「新宿新都心」に変貌した。東京の都市発展の姿そのものをこの淀橋浄水場跡は象徴している。この記念碑となった淀橋浄水所の建屋の一部が、資料館に現物展示され近代水道建設の歩みを伝えている。

訪問後の一言

Water M- illust 10 今回の水道歴史資料館訪問では、何よりも印象に残ったのは、江戸時代に築かれWater M- illust 05た水道網建設の土木技術の高さと水を巡る社会組織が確かさであった。。また、江戸の上水から明治以降の近代水道構築の意義と発展のダイナミズムにも改めて認識を深めることができた。住民への有効な「水」の確保と利用は都市の発展にとって必須の用件である。また、生活用水だけでなく産業発展にとっても水道網の整備は欠かすことができない要素Water M- Meiji 15と思われる。これらのことを歴史的な検証を含めて資料館は教えてくれるように思う。

現在、東京各地の建設現場で、江戸時代の遺跡・遺物が見つかっているが、これらの中に示された水道路の跡は、当時の社会生活と社会システム土木技術を反映するものであろう。(資料館ではこれらの発掘図や遺物が展示されている)。資料館は、18世紀当時、江戸の町Water M- Tamagawa 03が世界でまれに見る成熟した都市であったことを「水管理」の観点からも教えてくれる。また、現在まで、どのようにして水道網が整備され、現在も、どのような問題を抱Water M- illust 04えているかを知らせてくれる知的博物館でると認識できた。 今回は、用水として使用した「上水道網」であったが、次に、これら使用後の「下水・排水網」がどうだった気になっている。東京都では、現在の排水・浄水システムについての博物館「虹の下水道館」があると聞いているが、次に訪ねてみようと思っている。

(了)

参考にした資料:Reference