―幕末・佐賀藩が挑戦した西欧技術導入の試みを実感ー
昨秋に佐賀を訪問した際、世界遺産に指定された三重津海軍所跡を訪ねてみ
た。 これは、幕末、九州の佐賀藩が作った「御船手稽古所」、造船と海軍訓練を目指した「三重津海軍所」の跡を示す遺跡で、海軍所の設立に関わった佐野常民の記念館とともに公開している。この遺跡は、佐賀の中心から10キロばかり離れた場所、有明海に注ぐ早津江川河畔にあった。
佐賀藩は、当時、鎖国下にあった日本の中で最も熱心に近代科学技術の導入を図っていた藩の一つであるが、この先進性と江戸末期の技術的挑戦を示す貴重な記念碑となっている。遺跡訪問は非常に印象深かった。これはその印象記。
振り返ってみると、幕末、西欧からの脅威に対抗するため、江戸幕府は「長崎海軍伝習所」を作り大型船舶の操船と海軍訓練を開始、多くの人材を育てたが、諸般の事情から5年ほどで閉鎖された。しかし、佐賀藩は藩内の三重津地区に、藩独自に「海軍伝習」を継続して行う施設を作る、これが「三重津海軍所」であった。ここは操船伝習だけでなく、大型西洋船の修繕、ひいては蒸気船の建造も目指す施設として整備されたものであった。また、同藩内には、「精錬方」という「工学研究施設」もつくり、造船と共に蒸気機関や反射炉などを設立している。
三重津海軍所跡所在地:〒840-2202 佐賀市川副町大字早津江津446-1
HP: https://mietsu-sekaiisan.jp/
♣ 三重津海軍所跡の発掘調査と遺跡の内容
遺跡地域内には、当時の三重津海軍所は、船泊となる船屋地区、伝習が行われた稽古場地区、船舶の修理や補修、建造を行う修覆場地区に分かれていたあとが明確に残っている。このうち修覆場では日本で初めてのドライ・ドックも建設されていたと考えられている。
この遺跡は、日本が西洋の船舶技術の導入を行いつつ、和船の技術を応用も応用して自力による造船工業近代化を目指した過程を示すものと評価され、「世界遺産」にも登録されている。
この三重津海軍所遺跡は、2000年代から「世界遺産」指定を踏まえた発掘調査が行われ、現在は、往時を偲ぶ史跡公園として整備されつつある。しかし、現場は、まだ一面の草地の中に転々と石組みの跡や礎石が置かれているのみで、遺跡としての実態を示すものはみれレなかった。ただ、訓練所、修船場、ドック跡の説明版が各所に置かれていて、訪問者は、これによって僅かにかっての作業・伝習所の姿を想像することができる。
三重津海軍所跡のドックの護岸遺構やその他の遺跡群は主に木材でつくられているため、空気にさらされて乾燥で風化してしまう。これを防ぎ保護するため遺構は地中に埋め戻されていて、実物は見ることが出来ないのである。
その代わり、隣接する「佐野常民記念館」の中に、この発掘された遺物や発掘再現図が豊富に展示されており、当時の「海軍所」の全貌を知ることが出来る。また、遺跡現場では、一種の携帯用スコープが準備されていて、現場の施設の概要や作業模様をCGIイメージで見られる工夫がしてある。私の場合、やや人工的な印象で実感が湧かなかった。こういった遺跡群は風化・劣化しやすいものが多いので、保護を優先する以上す想像力によって歴史を体験するほかないのかも知れない。歴史遺跡の宿命ともいえるだろう。
♣ 三重津海軍所遺跡の歴史的意義
この三重津海軍所跡は、幕末からの明治にかけての造船技術発展見る上で重要な意味を持った遺跡であることは言うまでもない。一つは、大型様式船の建造・修復を日本の伝統的船大工
の技術と西洋技術を組合せによって成功裏に実行したこと、二つ目は、日本ではじめて実用蒸気船を築造した地場技術力の高さでなどある。このことを示す遺跡現場として、洋式大型船の部品を作った「製作場」と「修復場」。ドライ・ドックが注目されている。
製作場では、方形炉、坩堝炉、鋳込場の跡が発掘され、鉄や銅合金による船舶部品が多く出土している。特に、日本にはなかった鉄の接合リベットが製作され。ボイラー組立などに使われたと創造されている。湾曲した鉄板へおリベット打ちは赤熱させた鋲を短時間に鉄板に圧着せねばならず。これにはきわめて高い熟練と材質管理が必要だったといわれる。これらボイラー作業には佐賀藩の精錬方に籍を置いていた田中久重などが深く関与していたと信じられている。この結果、独自の手法で、日本最初の蒸気船「凌風丸」が完成して、幕末当時の佐賀藩の技術力の高さが証明されている。
また、大型西洋船の修復には日本最古のドライドッグが使われた。このドライドッグは、階段状に組んだ木製フレームが使われ、渠壁底面には貝殻を使うなどの工夫が見られ、同時期の横須賀製鉄所のドックが外国人主導で建設されたのに対し、木組みを使い日本独自で設計・建設した西洋式ドライ・ドックという点で他に類例を見ないものと言われる。西洋技術の体系的学習と模倣を繰り返しつつ、伝統的な手法を取り入れる
中で新しい技術を開発していった技術者の知恵と工夫が込められていたと考えられる。これらを一つの地方勢力である佐賀藩が、多数の技術者、江戸末期、在地職人を動員して独自の手法で造船という技術的困難を乗り越えてやり遂げた歴史的意義は大きいと考えられる。
♣ 「佐野常民記念館」の展示と佐野の功績
「三重津海軍所」の発掘が進み佐賀の歴史公園として整備が進むなか、
この海軍所の首班であった佐野常民の功績を伝えるため公園内に「佐野常民記念館」が2004年設立された。この記念館には、先に述べたように三重津海軍所跡から発掘された遺物、出土品が多数展示されている。また、三重津海軍所がユネスコから「世界遺産」に指定された後、この情報センター的な役割を担っており、立体模型、時空年表、ドームシアターなどを整備して海軍所の歴史を伝えている。また、幕末の佐賀藩でこの海軍所の責任者となった佐野常民の年譜、遺品、記念品なども展示して、彼の先駆的な政治、産業、科学、社会活動の内容を詳しく紹介している。
これによれば、佐野は藩校弘道館で学んだ後、大阪や江戸で緒方洪庵、伊東玄朴について蘭学、医学を学び、帰郷して佐賀藩で「精錬方」という産業研究の主任となっている。
そこで、彼は築地の反射炉建設、蒸気機関の製作などに携わり、佐賀における軍事・産業の近代化の推進に貢献している。その後、三重津海軍所の責任者となって技術者を集め、造船事業を指導し、1865年は蒸気船「凌風丸」を完成させたことで知られている。
これには佐野を責任者にして支援した佐賀藩の開明的な鍋島直正候の貢献が大きかったことが指摘されている。
また、佐野は、幕末の1867年のパリ万博に佐賀藩代表として参加、また、明治になってから、佐野はこの経験を買われ、日本初の内国勧業博覧会の展示や構成にも関わっている。しかし、彼の最大の功績は、明治時代の初期に「日本赤十字社」(当初の名称は「博愛社)を設立したことだといわれる。近代技術の導入だけでなく西欧社会倫理の優れたエッセンスをも日本にもたらし社会そのものの近代化を促進した佐野常民の功績は大きいものがある。三重津に設立された「佐野常民記念館」は、その意味でも意義のある博物館だと感じられる。
♣ 訪問の感想
今回は佐賀城本歴史館を訪問したあとの短時間ではあるが三重津の海軍所跡と佐野常民の記念館の訪問であった。勤め先の関係で福岡や北九州、長崎や熊本、そして鹿児島を訪れる機会は多くあったが、今回は、
殆どははじめて佐賀を訪問することになった。佐賀は幕末から明治にかけて政治・経済・社会において重要な役割を果たしているのだが、歴史上はやや地味な印象があり、その先進性や近代化政策についてこれまで注目されることが少なかったように思われる。しかし、今回の訪問を通じて、佐賀が日本の社会の近代化において最も先駆者的な役割を果たしてきたことを改めて実感した。
特に、鎖国と封建制の下で西欧産業技術の吸収、造船、製鉄事業の推進、社会近代化への取り組みを他に先んじて実行に移した点は特筆すべきであろう。人材の面でも、佐野常民、大隈重信、福島種臣、佐野常民、江藤新平など優れた人材が、明治以降の社会形成に大きく貢献している。特に、佐野は、「精錬方」、三重津海軍所での革新的な事業、博覧会事業、赤十字という社会活動において果たした。
今回、この三重津海軍所跡と佐野記念館を通じて、江戸末期、佐賀藩をルーツとして佐野はじめ幾多の革新的な藩人材が、政治・社会近代化へ向けた先駆的な役割を果たしたことが改めて認識できた。 また、この訪問を通じて、日本各地で生じた幕末・明治期の政治・社会のダイナミズムと産業近代化への息吹を感じることが出来たのは大きかった。
(了)
Reference:
- http://mietsu-sekaiisan.jp/sp/ 三重津世界遺産HP
- http://mietsu-sekaiisan.jp/history/ 三重津世界遺産HP History ;
- 佐賀・精錬方HP: https://www.city.saga.lg.jp/main/3855.html
- 佐野常民博物館 http://www.saganet.ne.jp/tunetami
- 佐野常民記念館パンフレット
- 佐賀城本丸歴史館パンフレット
- 「佐賀の幕末維新八賢人」佐賀歴史館刊
- 「佐野常民―佐賀偉人伝」佐賀歴史館刊
- https://ja.wikipedia.org/wiki/三重津海軍所