―釜⽯の製鉄の歴史と世界産業遺産指定の意義を知るー
はじめに
今年6月、釜石の製鉄所と世界産業遺産に指定された橋野鉱山跡を訪ねた。目的
は、現在新日鉄住金釜石事業所となっている釜石の製鉄所の来歴を知ること、江戸末期に高炉築造を成功させ、後の八幡製鉄につながる製鉄業発展のルーツとなった橋野鉄鉱山をこの目で見ることであった。短い旅行ではあったが、旧来の“たたら製法“に代わって西洋式高炉の建設を目指した橋野の鉄鉱山跡、高炉跡を見学することで、江戸から明治にかけての日本の製鉄技術開発の努力過程を幾分か知ることができた。また、釜石における製鉄業の発展については、釜石市内に作られた
「鉄の歴史館」を訪ねて多くのことを学ぶことが出来た。一方、はからずも釜石から気仙沼にかけて三陸鉄道をたどることで、東日本大震災と津波被害の爪痕を見ると同時に、現地の復興は未だしの状況ではあるが、震災復興に向かって歩みはじめている姿に勇気づけられた。
以下、この「橋野鉱山跡」の現状を中心に、「鉄の歴史館」の展示と釜石における製鉄業の展開、「釜石郷土館」にみる釜石の今昔と震災の現状をまとめてみた。
(第一部は“橋野鉱山”と釜石の製鉄業の展開、第二部は「鉄の博物館」の展示と釜石の今昔を記した)
○橋野鉄鉱山跡所在地 岩手県釜石市橋野町2-15
HP: http://www5.pref.iwate.jp/~hp0252/hashino/index.html
https://www.tohokukanko.jp/sozaishu/detail_1006855.html
♣ 世界遺産となった橋野鉱山とは
橋野鉄鉱山跡は釜石から北西に30キロばかり内陸部をいった橋野町青ノ木の山
中にある。私たちは前日釜石駅前のホテルに一泊しタクシーで現地に向かった。橋野鉄鉱山・高炉跡は、盛岡藩士大島高任が、オランダの技術書を用いて日本ではじめて洋式「高炉」を建設、1878年に同鉱山から産出する鉄鉱石を使って端緒的な近代製鉄生産を開始した場所である。このとき建設された洋式高炉基礎の石組み部分が、現在そのまま残っている。また、この周辺には、当
時、製鉄に関わった作業所跡なども発見され、この地で銑鉄の生産が盛んに行われていたことがわかっている。このため橋野鉄鉱山・高炉跡は1957年に、産業遺跡として国の史跡に指定され、1984年には、米国金属協会(ASM)からHL 賞(Historical Landmark 賞)を授与されている。
一方、橋野に先立って、1857年、甲子村大橋では試験的に洋式高炉が建設されたが物理的な遺跡としては残っていない。 しかし、日本で最初に大橋高炉で出銑に成功したとされる1857年12月1日は「鉄の記念日」として顕彰されていることも忘れてはならないだろう。
<橋野に洋式高炉建設が作られた時代背景>
このような高炉建設が試みられた背景は、当時、鎖国下で海防の必要画強く求め
られ、各地で大砲築造のため製鉄原料となる銑鉄の供給が強く求められていたことによる。江戸時代末期、幕府からの要請で水戸藩でも、江戸湾の防御のため那珂湊に大砲築造のため「反射炉」を建設しており、原料となる銑鉄を必要としていた。その時、水戸藩に寄留していた大島高任は、この銑鉄材料供給先として、製鉄の木炭燃料となる森林が豊富で鉄鉱石も多く産出する盛岡藩の釜石周辺の鉄鉱山に着目し、高炉建設を志したとされている。
橋野鉄鉱山地域には、その後、三つの高炉が建設され、大規模な製鉄作業所としての生産システムが確立、三番高炉についてはその後36年間操業が続いたとされる。ここ橋野では、鉄鉱の採掘現場跡、鉱石の高炉までの運搬路跡、高炉の石組み、在来技術を使った水路とフィゴ設置跡、作業場や生産管理施設跡などが一体として残っており、当時の鉄生産の現場を彷彿と
させてくれる。
これらは、技術的にも歴史的にも八幡製鉄の建設につながる日本の製鉄業近代化の一翼を担った遺跡として貴重であるとして、2015年、「明治日本の産業革命遺産」の一つとして「世界遺産」指定されたのは、上記の通りである。
♣ 橋野鉄鉱山事業所跡と高炉跡の現状
橋野鉄鉱山・高炉跡を見学するには、現地に出来た「釜石市橋野鉄鉱山インフォメーションセンター」を訪ねるのが便利である。ここでは、橋野関係の鉱山資料のほか、現地の案内や説明をしてくれる。私にもボランティアスタッフが現地案内をしてくれた。
橋野鉄鉱山史跡を全体としてみると、位置としては橋野町青ノ木地区の二又川上流に所在し、上流山地より鉱石採掘場跡、沢沿いの運搬路跡、下流段丘の高炉跡の三つからなっている。採掘場と運搬路跡へのアクセスは難しく訪問できなかったが、高炉跡には、製鉄作業跡などが点在していて、当時の製鉄がどのように行われていたかがよく分かる見学
であった。
橋野の高炉は全部で三つあり、南から一番、二番、三番と高炉の基礎となる石組みが残っている。その高炉跡周辺には、送風洋のフイゴ動力に使った水車跡、水路跡、作業小屋跡などが点在しており、江戸時代鉱山管理の行われた「御日払い所」跡などが見られる。また、東側の山には石
組みに使われた石切場跡、山神碑なども見られる。 私たちは、三番高炉から順次一番高炉まで歩いて見学したが、高炉跡全体の構成は図のようになっている。
<建設当時の高炉と製鉄の仕組み>
当時の工程としては、採掘場から山中、牛馬や人力で高炉場まで鉱石運び、種砕き場で細かく鉱石を砕き燃焼して不純物を取り除き、高炉に木炭と一緒に投入、水力フイゴで送風しながら高炉内で高熱で鉄を溶して溶融出銑(湯出し)するというものであった。現地では、このための「種砕水車場」跡、「種焼窯」跡、フイゴ設置跡、出銑後の「鍛冶場工場」跡、水車の取水跡などが確認できる。
高炉については、石組みのみ残った史跡であるが、この当時の構造体、規模、機能などを確認できる貴著な資料であるという。このうち二番高炉には
構造絵図が残されている。これによれば4.8メートル四方に4.8メートルの石組みがあり、内部には耐火レンガ、上部は漆喰で固めた煙突部があって全長は約8メートル位の炉となっていて、脇にフイゴ小屋が設置してあったのがみえる。これらはヒュゲーニンの「ロイク国立鋳砲所における鋳造法」を
参考に大島高任が設計してもので、原書によりながらも日本独自の工夫が施されていたといわれる。特に高い熱量を引き出すための送風フイゴの構造や水車を活用して動力とした点などが上げられ
ているようだ。
いずれにしても、当初稼働後、この鉄鉱山の生産現場は拡大し最盛期には1000人を越える作業者が働き、その後明治になって釜石地域の官営製鉄所、民営の田中製鉄所の設立につながっていった。
♣ 釜石における製鉄業の歴史展開
上記のように釜石周辺では、江戸から明治にかけて洋式高炉を設置して以来、製鉄業が発展している。橋野鉄鉱山自体は、江戸幕府崩壊により水戸藩の那珂湊反射炉への銑鉄の供給が必要なくなったてしまったが、引き
続き江戸時代「鋳銭場」(貨幣鋳造所)の一つとして生産が続けられた。しかし、明治二年貨幣鋳造禁止令により中断に至り橋野は閉山となる。その後、明治13年(1880)に大橋地域を中心とする「官営釜石製鉄所」が建設された。
この設計に当たっては政府が招請した外国人技師の案を採用し操業が開始されたがうまく出銑が実現せず1883年には大幅な赤字
とともに廃業に追い込まれた。この後、同鉱山を買い取ったのが田中長兵衛で、創業したのが「釜石鉱山田中製鉄所」であった。この田中製鉄所は、近代日本の鉄需要の進む中で、横山久太郎や野呂景義らの貢献もあってコークスを利用した製銑により大量且つ良質の銑鉄を生み出して生産をのばし、国内需要の多くをまかなうまでに成長する。これと共に、工場地の拡張、設備の近代化、輸送鉄道の整備(当初は馬車鉄道)が進み、1903年にはこれまでの銑鉄生
産に加え製鋼作業も開始、日本で最初の見込める銑鋼一貫製鉄所となる。
これと前後して九州八幡地区に「官営八幡製鉄所」が設立された際にも、釜石の技術者の派遣を通じて釜石製鉄所の技術は伝承されていったという。その後、紆余曲折があり田中鉱山と名前を変えた田中製鉄は、三井鉱山に経営権が移り、また、戦前の日本製鉄、富士製鉄をへて新日本製鉄へと変転して、現在は、新日鐵住金釜石製鉄所となっている。まさに、釜石の製鉄所は日本の長い製鉄史のなかで中軸の一つを占めていたといえるだろ
う。ちなみに、初期の田中製鉄所の所在した大橋には、史跡と
して「旧釜石鉱山事務所」が文化財建造物として残され、関係資料が一般公開されている。また、この周辺には大橋高炉跡の碑が建っている。
(橋野・大橋鉄鉱山開発からはじまり田中製鉄所の発展、日鐵釜石製鉄にいたる歴史経過は、大島高任の事跡と共に釜石市内にある「鉄の歴史館」で詳しく展示してあるので、次回に、この内容も紹介してみたいと思っている)
♣ 見学を終えて
僅かな時間であったが、橋野鉄鉱山と高炉跡を見学し、近代以前の製鉄のあり
方や西洋高炉の導入により近代製鉄の芽が育ちつつあった当時の姿を垣間見ることが出来た。佐賀や鹿児島、山口・萩で、蘭学書を基に大砲鋳造を目指して「反射炉」作られたが、いずれも鉄の鋳造という点では欠陥が多くは失敗したといわれる。原因は、在来のたたら製法による鉄材が用いられたこと、加工技術が未熟だったことによるといわれている。この中で、鉄鉱石を原料とする「高炉」による鋳鉄製作を試みた橋野鉄鉱山で成功した大島高任の功績は大きい。ここ橋野には高炉の基礎部分の石組み跡が現在でもそのまま残っていて歴史遺産としての価値は大きい。「明治日本の産業革命遺産」のひとつに指定されているのもうなずける。 反射炉についても、橋野や大橋同様に蘭書に基づき西洋近代製鉄を目指している点では同じで、当時作られた反射炉の原形は殆ど残っていない中で、萩の反射炉跡、伊豆韮山の反射炉は当時の製鉄の様子を伝えるものとして「産業遺産」に指定されている。私たちは、昨年来、こ
の二者についても訪ねてみたが、その後の田中製鉄所、八幡製鉄所につながる製鉄業の技術的端緒となった点では橋野鉄鉱山跡には及ばない。 このホームページで歴史的産業遺産の記事に関わっているなかで、この釜石は、一度は訪ねてみたいと思っていた場所であった
ので、今回懸案がかなった気がしている。日本には、まだまだこういった産業遺産が多く残されていると思われるので、引き続き訪ねてみようと思っている。足尾銅山などはその一つであり、そのうち訪ねてみたい。
(了)
Reference:
- 釜石の歴史(釜石市ホームページ)http://www.city.kamaishi.iwate.jp/
- http://www.japansmeijiindustrialrevolution.com/site/kamaishi/component.html
- 鉄の歴史館パンフレット(Iron and Steel History Museum)
- 橋野鉄鉱山―日本近代製鉄の先駆け-(釜石市教育委員会作成)
- 橋野鉄鉱山―橋野高炉跡及び関連遺跡―(釜石市世界遺産登録推進委員会作成)
- 世界文化遺産・橋野鉄鉱山パンフレット(橋野鉄鉱山員フォーメーションセンター)
- 釜石の産業遺産と大島高任(小野崎敏氏講演会資料-東京産業考古学会03)
- 大橋高炉跡・釜石鉱山・旧釜石鉱山事務所パンフレット(釜石市教育委員会作成)
- ビジュアル版 日本の技術100年 (2) 製鉄・金属 (筑摩書房)
- 金属の文化史―産業考古学シリーズー(黑岩俊郎編)アグネ刊