日立市の「小平記念館」を訪ねる

―日立製作所の創業者小平浪平の歩みと日立の歴史を知る―

 電気産業大手の日立製作所の創業者を記念する「小平記念館」が茨城県日立市にある。 秋の深まる11月下旬、茨城県日立にある「小平記念館」を訪ねた。コロナ禍の下、入場が制限されている中であったが、係員の方が親切に対応し、無事見学を果たすことが出来た。 この記念館は、広大な日立製作所工場内に昭和30年代に設けられた企業博物館である。 そこでは日立の創業者である小平浪平氏の技術者・経営者としての足跡をたどりつつ、併せて、日立製作所の成り立ちや発展の経緯が丁寧に紹介されている。 また、博物館域内には、小平が日本で最初の国産電動機を製作したという作業所「創業小屋」も設置されており、往事の技術的挑戦とモノづくりへの情熱を彷彿とさせる。博物館は、四つの展示セクションに分かれていて、順に、小平氏を偲ぶコーナー、小平氏の日立市への貢献(町づくり、人づくり)、日立の製品・技術発展の歴史(①創業から戦後復興、②戦後から現在まで)、そして復元された「創業小屋」の展示となっている。それぞれ、小平に関連する遺品・記念品、記録写真、パネル、年表、製品類などが年代順に並んで展示されている。 しかし、なんといっても目を引くのは復元した「創業小屋」であろう。そこでは、明治の未成熟な機械産業段階の中にあって、手探りで製品作りに当たっている状況が再現されていて感動させられる。
なお、この「小平記念館」は、来年度には閉鎖され、他の施設共に市内の公園に移設されることが決まっており、その折には、広く一般に公開される予定であるとのことであった。この訪問の機会に、記念館の展示内容を簡単に紹介すると共に、この創業者小平浪平の足跡と日立製作所の歴史を追ってみた。

<小平記念館と創業小屋の展示>

 記念館は二階建ての建物からなっており、メインの展示スペースは、創業者・小平浪平の記念品の展示、小平の貢献した日立市街づくりのパネル展示となっている。展示室正面には、小平氏の実物大の胸像が配置され、続いて小平氏の人となりを示す遺品、年譜、写真、また日立創業・発展に至る数々のパネル、書類や記念物が見られ、製作機械の実物も数多く展示されている。中でも、目を引くのは、1910年代、小平が独力で開発に成功した「電気モーター」(5馬力誘導電動機)の実物展示である。これは、殆どの電機機械製品を輸入か外国人技術者に頼らざるを得なかった時代、国産電機技術の確立を目指し完成させたもので、日本が電機産業を構築する原点となった製品である。この時の作業場所を再現したものが構内に設置されている「創業小屋」である。 小屋の内部には、当時使用された簡素な製作道具類が展示されており、如何に苦労を重ねつつ製品を作り上げたかを彷彿させられる。
技術者小平氏の生涯を示す展示では、青年時代の写真、大学の記録、技術者・事業家としての年譜、波乱に富んだ生涯の遺品、記念品などがあり、国内電機産業の発展と技術確立のパイオニアとして活躍した小平の生き方が強く感じられる。また、記念館のテーマの一つとなっているのは、日立製作所の発展と共に小平が広げた日立市の街づくり、人づくりへの貢献大きく取り上げられている。このための展示コーナーも特別に設けられている。

♣ 展示に見る小平浪平の挑戦の足跡と日立製作所の発展

 これら記念館の展示を参照しつつ、今回、技術者小平がたどった技術者・事業家としての生き方、そして、日立製作所の発展の足跡を探ってみた。小波浪平は、1974年、栃木県下都賀に生まれ少年時代を地元で過ごしたが、その後、東京に出て第一高校、東京帝国大学に進み電気工学科を卒業、藤田組小阪鉱山に電気主任として入社、発電所づくりに関わる仕事に関わることになった。 しかし、当時、日本の電機機械がほとんど外国技術に頼っていることに失望し、なんとかして国産技術による開発を果たしたいとの志を強く持っていた。 これを後押ししたのが、学生時代の友人渋沢元治(渋沢栄一の甥)であったという。
その後、彼は東京電灯の送電課に移ったが、電機機械開発に取り組む夢を持って、1906年(明治39年)明治の実業家久原房之助の経営する日立鉱山に移る。日立鉱山では、中里・町屋・石岡の発電所建設、電動機・変圧器、電気機械の修理を行いつつ、久原の後押しも得て国産電動機の開発に取り組むことになる。この丸太仕立ての掘立小屋で完成したのが、国産初の5馬力モーターであった。これが今日の「日立製作所」発展の基となった製作工場「創業小屋」である。

<日立製作所事業の進展と独立>

  発足したばかりの小平の製作所は、制作中の電動機の故障、数々のトラブルに見回れるなど危機も経験する、しかし、小平は、これらを一つ一つ克服しつつ国産機械の開発を進めていった。 1911年、この製作所は「久原鉱業所日立製作所」となり製作工場として独立を果たす。当時に進められた技術の試行錯誤、旺盛な技術挑戦、実技指向が、今日、「技術の日立」の企業文化に生かされていると評価されている。 この精神を一貫して主導し促進したのが技術者小平波平であった。
この初期の開発成果としてあげられているのが、「製造番号1」の275馬力誘導電動機、250kVA水車発電機の回転子、10000馬力フランシス水車ランナーなどである。これらは、日立の初期の技術的挑戦を裏付ける製品群として設計図と共に、記念館に展示されていて興味深い。

そして、製作所は、1922年、いよいよ久原鉱業から独立して「株式会社日立製作所」となる。そこでは大型電気機関車(1926)、150馬力電車モートル(1928)、水電解槽設備(1931)、エレベーターの製作(1933)、電気冷蔵庫第一号機(1934)などの製作を果たし、先進的な電機総合メーカーとしての地歩を築いていく。 この発展の原動力となったのは日立に集結した優秀な技術集団と小平の技術構想力、人間力であるといわれている。このことは社内技術雑誌「日立評論」の発行にも照明されている。(記念館では、この初号から現在までの冊子を展示している)
記念館では、これらの軌跡を日立製作所の年譜として、パネルで図面、写真、映像、実物などでわかりやすく解説している。(日立の製品・技術発展の歴史)

 

<戦後の日立製作所復活と発展>

  しかし、日立は太平洋戦争の末期、米軍による爆撃で設備人材と共に甚大な被害を受ける。日立市の工場は全壊、数百人の死者を出している。この痛ましい状況は記念館の展示でも、鎮魂の記録として丁寧に記録されている。 また、戦後、日立の経営幹部は公職追放を受け浪平も社長の座を追われることとなる。 しかし、1948年には主要工場も復活、戦後の復興の過程で民間需要の高まり、高度成長下のインフラ整備で、持ち前の技術力を発揮して、戦前にもました大きな企業発展を遂げるようになる。 この過程は、日立の発展年譜として、「技術の今」「技術製品解説」のコーナーを設けてダイナミックに内容を伝えている。

<グローバル企業として発展する日立製作所>

  この軌跡を見ると、1954年  国産第1号の大型ストリップミル完成、1959年 トランジスタ電子計算機「HITAC 301」を開発、1964年 東京モノレール羽田線向け車輌を製造、1970年 世界初の列車運行管理システム、1996年 次世代型列車運行管理システムATOSなど、日本の電機産業の一翼を担ってきたことがわかる。 また、企業経営の面でも、日立電線、日立金属、日立化成、日立建機などの分社化など、日立グループの形成に向かっている。海外メーカーとの連携を深め海外展開も積極的に進めている。 これらの姿は、記念館の「戦後展示ゾーン」に、パネル、映像、模型、写真などで詳しく解説されている。 これらを見ると、日立製作所の発展を確認できると共に、日本の電気産業、インフラ産業の発展あり方全体も考えることも出来るだろう。また、電子電気産業における厳しい国際競争下の日本メーカーの苦闘の姿もかいまみることができる。

 

<現在の日立製作所と記念博物館の意義>

  このようにして成長した日立製作所は、創業から110年を経て日本を代表するグローバル企業の一つとなった。また、事業範囲は、電気事業にとどまらずIT、エネルギー、モビリティ、金属、化学など10の部門を持ち、売り上げ10兆円、従業員30万人の巨大企業になっている。 現在、これらの企業事業体は、日本全体、海外に広く展開しているが、これらを生み出す母体となった茨城県日立市の工場群は今も健在である。この揺籃の地に、創業者である小平浪平の「記念博物館」が設立されたことは、日本の電機産業の発展を見る上でも、非常に意義があることであると思われる。
  来年には、工場の敷地内にあるこの記念博物館は、新たに日立市内の公園・総合施設「日立オリジンパーク」に移設されることになっている。この移転で、博物館がより広い市民の共有施設として生まれ変わることを希望したい。私も、完成した暁には是非再度訪問してみたいと思っているところである。

(注)文中の写真は多くが次のWeb資料によった。https://weekendibaraki.com/introduce/odairamuseum
https://pc.watch.impress.co.jp/docs/news/event/382366.html#024_s.jpg  
https://gijyutu.com/ohki/tanken/tanken2003/hitachi/hitachi.htm#odaira-kinenkan

参考文献など