大日本印刷の博物館「市谷の杜 本と活字館」を訪ねる

       ―日本の活字印刷と本づくりのルーツを探る

大日本印刷「本と活字館」

 今年6月、市ヶ谷の大日本印刷の博物館「市谷の杜 本と活字館」を見学してきた。「大日本印刷」の敷地は広大で「市谷の杜」名付けられた広い緑地帯を擁している。この一角に「本と活字館」が2020年に開設された。同社の印刷技術の歴史のほか、明治近代化以降、日本の印刷の主流だった活版印刷技術の進化を示す品々が幅広く展示されている。

博物館の展示スペース

博物館の展示スペースには大日本印刷の工場内で実際に使われた活版印刷機器、活版の作字機が据え付けられ、実際の母型鋳造、文選・植字、印刷、製本過程などをプロセスが丁寧に展示紹介されている。普段目にしている印刷物や書籍類がどのような作業と技術で成り立っているのかが分かる親切な展示である。

「市谷の杜 本と活字館」(大日本印刷DNP)
〒162-8001 東京都新宿区市谷加賀町144
Tel: 03-4686-0555
http://ichigaya-letterpress.jp 

<印刷技術の進化を示す展示>

進化する印刷技術

 印刷方式は、時代を追って活版から、オフセット印刷、写真印刷、レーザー印刷と技術は進化、印刷形態も紙から多様な材質・形状へのプリントと発展してきている。現在では活版印刷は既に古い印刷法といっていいだろう。しかし、文字印刷の基本とその原形を示す活版印刷は、今日でも印刷の技術的基礎を占めるもので、日本の印刷技術発展の道筋をみる上でも貴重といってよい。

明治初期の福沢諭吉「学問のすゝめ}

また、活字印刷もたらした政治、経済、社会、文化的インパクトを考える上でも、博物館は重要な技術遺産と考えられ、「本と活字館」の存在意義は高いと思われた。なお、類似の博物館としては、凸版印刷の「印刷博物館」(飯田橋)があるが、こちらは広く印刷全般の技術発展、印刷文化のもたらす社会的変化、歴史を対象にしている点で性格が異なるようだ。

 以下に、「本と活字館」の展示内容を参照しつつ、大日本印刷の本作りと印刷技術の展開、日本の文字づくりと印刷技術発展の歴史、活字文化の浸透を考えてみた。

日本の近代印刷の始まりと活字印刷

 <書写から木版印刷>

家康が作らせた駿河版銅活字による『群書治要』

 まず、日本の印刷文化の特徴と成り立ちを見てみる。
日本においては、仏教の法典または文書のほとんどが写本、木彫り木版によってのみ印刷・複製されてきた。しかし、江戸時代以前に中国、朝鮮からの活字技術の導入による銅活字による印刷を試みは確かにあった。例えば、“駿河版銅活字”による印刷物『群書治要』やイエスズ会宣教師の手による「“きりしたん版”印刷物 などである。しかし、日本では漢字文字数が多数に及び作業も繁雑だったこと、

江戸時代に沢山印刷刊行された
「浮世絵」や「草草紙」本

また、キリスト禁教措置などがあり、やがて活字による印刷は根付かず忘れ去られた。近代、西欧においてはグーテンベルグによる活版印刷の普及が急速に進んだのと対照的である。 さらに草書記述が多い日本では木彫り木版による印刷が便利で、一般に普及しやすかった。これらの背景から、江戸時代中期以降、日本独自の木版印刷技術が非常な発展をみることとなる。精緻な色刷りによる浮世絵版画や錦絵、絵入りの人情本や世俗本などが庶民の読み物として人気を集め、専門の出版社も出現して大量に印刷刊行されていたのである。 

<活字印刷への復帰> 

 しかし、明治期の急速に進む近代化と社会変化の中で、従来の木版印刷では、十分な社会情報の需要や教育の普及には対応できなくなった。新たな活字印刷技術が必要となってきたのである。この需要に応えるため、大量印刷の可能な金属活字による近代的印刷の導入がはかられる。この黎明期を支えたのが本木昌造の試みであった。 長崎で通詞を勤めていた大木は、オランダから活版印刷技術を学び、数の多い日本漢字を独自の方法( “蝋型電胎法”という活字母型製造法)で作った鉛活字を発明する。また、これを普及させるため、1869年には「活版伝習所」の開設も行っている。ちなみに、長崎には「活版印刷発祥の地の碑」があり、大木の作った活字母型のレプリカも展示されている。

本木昌造の業績を伝える
「活版印刷発祥の地の碑」
本木昌造と平野富二

 その後、大木の弟子であった平野富二は東京に「東京築地活版製造所」を設立し、活字類の鋳造、印刷機械類の製作を開始している。(平野は石川島重工、現IHIの創業者でもあった)また、谷口黙次が大阪で「谷口印刷所」(大阪活版所)をそれぞれ設立するなど、本木昌造を起点にした日本の近代活版印刷は大きく裾野を拡げる。なお、築地活版製造所が長崎の活版製造所から引き継いで製作改良を重ねた書体は「築地体」と呼ばれ、日本で現在使われている印刷文字の源流となっている。

明治初期に出された各種の印刷物

 以降、日本でも、従来の木版による印刷方法から大きく転換し、様々な学問書、新聞、教科書、証券類がすべて西洋活版印刷技術をベースに作られるようになる。

ビジネスとしての活版印刷と大日本印刷の創業

佐久間貞一
創立当時の秀英社

 こうして明治近代化の旺盛な印刷物需要に応えるべく、日本では、各地に多くの活版印刷所が設立された。このうちの一つが現在の大日本印刷の基となった「秀英舎」である。同社は、1876年(明治9年)、活字版若干と印刷機械数台を備える小さな活版印刷所として、東京・銀座の地に誕生する。創設者は、佐久間貞一など四名の実業家であった。その後、同社は、この時代の相次ぐ新聞発行や書籍需用に促される形で業務の拡大をはかる。また、印刷事業の活発化に備えて鋳造部を設置、活字、字母の開発を進めるなど設備の革新もはかっていく。このとき開発されたのが、現在でも広く使われている「秀英体」という字母である。

秀英体の開発

 1886年には、業務の急増に応え東京・市谷に新しい工場を建設、活字製作、印刷、書籍製作の会社としての大きな一歩を踏み出した。この秀英舎を大きく飛躍させたのは、当時ベストセラーとされた『改正西国立志編』の印刷であったと社史にはある。この本は、日本初の国産洋装本で、表紙の板紙も秀英舎が開発したものであった。そして、1923年(大正12年)の関東大震災を契機に本店機能も現在の市ヶ谷に集約して事業の拡大を図る。また、昭和になると、一般印刷物のほか文学全集が続々と出版されるなど新たな需要拡大と印刷業界再編を受け、1935年(昭和10年)、秀英舎は「日清印刷と」合併、「大日本印刷」として新たなスタートをきった。

 そして、戦後になると、出版界の活況のなかで週刊誌の発行が相次ぎ、大日本印刷は設備能力を拡大し、凸版印刷と共に印刷出版界をリードする大企業として成長。また、創業以来の印刷技術を基礎に1950年代より、建材分野、情報産業や生活産業にも進出、最近ではディスプレイや電子デバイスなどのエレクトロニクス分野にも進出している。社名もDNP(大日本印刷)とし、「P&I」(印刷と情報)の強みを生かす総合企業となっている。その基礎にあるのは活版印刷で培ってきた数々の技術であると同社は述べている。

「本と活字館」にみる活版印刷の仕組みと本作り

<印刷工場風景の再現>

 今回訪問した「市谷の杜 本と活字館」は、この大日本印刷の発展と出版印刷の原点である活版印刷について、来館者に理解を深めることを目標に展示がなされている。一階の展示スペースでは、かつての印刷工場の風景を再現した「印刷所」があり、文字の原図を描くところから、活字の「母型」を彫り活字を鋳造、版を組んで印刷・製本するまでの一連の作業を実際に見ることができる。 また、ずらりと並んだ活字棚(ウマ)から、職人が多くの活字を手早く拾って「版」に納める光景がバーチャルで再現されていて、どのように活字が組まれるかがわかる。通路奥のテーブルには、印刷・製本に使う多様な用具類が、使用法の解説と共に展示されていて、印刷作業の内容も確認できる。

<活版印刷作業のプロセス展示>

活字の「デザイン造り」作業の展示

 一般に活版印刷では、作字、鋳造、文選、植字、印刷、製本といった過程を経て出版物ができあがっていく。作図では文字のデザイン造り、鋳造では文字母型の鋳造製作、「文選」(活字選び)、「植字」ではできあがった活字を文章毎に綺麗に並べて版を作る作業、次はインクをつけて印刷する作業、そして本作りの「製本」といった作業が連続して行われて印刷出版物が完成する。展示では、これらが、どのような作業手順と精度、技能・技術によって成り立っているかが詳しく分かる構成となっている。そして、これら展示を通じて、グーテンベルグの印刷術開発以来、どのような進化と発展を見たかを知ることが出来る。このうち、もっとも興味深かったのは、文字数の多い日本文字のデザインと鋳造母型づくりの作業であった。大日本印刷では、創業以来、「秀英体」という母型を開発し発展させてきたが、この多様な字母がどのような書体とフォント調整手順で制作されていくかを、その製作機械の展示によって示しているのが目を引いた。

活字母型造り
文選作業
植字作業
印刷製版造り

 




用具類と解説ダッチパネル展示
活版印刷機械

また、一階の広い展示フロアには、嘗て使われた各種印刷機械が陳列されていて、歴史的に印刷機械がどのような進化を遂げてきたかがわかる。地階は大日本印刷の歴史を紹介するフロア「記録室」、二階の体験展示があり、活版印刷による実演、そして見学者による体験印刷もできるイベントも実施されている。

<企画展示:本つくり100年>

 私が訪問したときには、丁度、「100年前の本づくり」という企画展示を行っていて、江戸から明治にかけて、和綴じの書籍から洋式製本による本づくりへの移行過程が展示紹介されていた。展示書の中には、1873年の英和辞書『附音挿図英和字業』、1876年の仏蘭西法律書』、1877年の『西国立志編』などの稀覯本もみえた。

活字館から学ぶこと 

市谷の杜にある「本と活字館」外観

「本と活字館」のある市ヶ谷は、20数年前、元職場があっためよく歩いた場所である。地域は大きく変わっているが、道路を挟んだ大きな敷地の中に大日本印刷の社屋があったのをおぼえている。今は、この地が「市谷の杜」という緑地帯に変わり、その中に、嘗ての社屋が「博物館」となっているのをみて非常に懐かしかった。この社屋は130年前のものだそうで、博物館とするため創建当時の姿を復元したという。また、展示内容も、明治に始まった大日本印刷の歴史そのままに、当時の活字製作過程、版づくり、活版印刷機器など、製本印刷技術の進化を再現し、日本の出版印刷文化の発展過程とルーツを示すものとなっていて貴重である。

大日本印刷により作成された初版本「広辞苑」

 現在では、印刷は活字印刷を越え、オフセット、写真印刷、レーザー印刷と進化し、また、デジタル技術によって、PCによる個人印刷も可能となる時代になっている。しかし、活版印刷がすべての印刷技術の基礎であり原点でもあったことを、この博物館では思い出させてくれる。また、歴史的に見ても、その印刷製本技術の浸透による日本の社会発展、教育文化、近代化へのインパクトの大きさは計り知れなかったこと自覚させてくれるものでもあった。
 「本と活字館」開設は、「印刷を通じて人々の知識や文化の向上に貢献する」という大日本印刷創業の理念に基づくものとされるが、「印刷・出版」技術発展の歴史を跡づける社会的文化的遺産として改めて問うものになっているといえよう。その意味でも貴重な産業博物館である。

(了)

参考資料: