鳥羽の「御木本幸吉記念館」を訪ねる

    ー養殖真珠を成功させた稀代の起業家・御木本幸吉の軌跡を訪ねて

Mikimoto-H Kokichi x04 三重県鳥羽の真珠島には「真珠博物館」のほか、養殖真珠を世界で初めて作り出Mikimoto-H Hall x01した御木本幸吉の「記念館」がある。真珠博物館を見物した後、この「記念館」にも立ち寄ってみた。ここでは、若くして真珠養殖に取り組み、多くの困難に直面しつつ養殖真珠事業を成功させた幸吉の波瀾に富んだ生涯が、多くの写真や実物、説明パネルによって丁Mikimoto-H Hall x03寧に展示されている。どのように養殖真珠が作り出され、日本の真珠宝飾産業として成長していったかが、御木本という人間像を通して伝わってくる記念館である。

御木本幸吉記念館所在地 〒517-0011三重県鳥羽市鳥羽1丁目7番1号
http://www.mikimoto-pearl-museum.co.jp/company/index.html

♣ 御木本記念館の展示にみる幸吉の生涯と事業

Mikimoto-H illust x06 記念館では、幸吉の幼年時代から真珠実業家として名をなすまでの生涯を時代にMikimoto-H Kokichi x03沿って解説展示している。また、御木本氏の96歳までの生涯で出会った人物、家族、そして人物像を表す逸話などが興味深く示されている。また、どのような苦難の中、養殖真珠を世界で初めて開発するに至ったか、故郷の伊勢志摩を国立公園として成功させていったか、などを展示を通して伝えている。

<生誕と少年時代>

Mikimoto-H illust x10.JPG 御木本幸吉は、江戸時代末期安政5年(1858)年、港町鳥羽の「うどんや」の息子としMikimoto-H Lifel x05て生まれた。幼い頃から利発な子供で芸にも長けていたという。また、若い頃から商才があり家業を手伝う一方、自ら海産物や野菜などを近隣で販売して家計を助けていた。「記念館」には幸吉が若い頃過ごしたうどん屋「阿波Mikimoto-H Hall x07や」の姿が復元されていて当時の様子が忍ばれる。子供の頃、鳥羽に寄港した西洋船に海産物への売り込みに成功して地域の評判にもなっていたという逸話も残っている。早くから商才が発揮されていたわけである。

<事業を志す青年時代>

Mikimoto-H Ilsland x05幸吉が20歳になった明治10年頃、彼は鳥羽でよくとれるイリコや干しアワビ、志摩の真珠が中国人の間では高値で取引されていると聞き東京Mikimoto-H Help x01Mikimoto-H Help x02へ視察に出かける。中国では薬用として粒真珠がよく使われていたのである。その後、幸吉はアワビなど海産物の本格的取引に乗り出し、一方で、志摩の真珠の素となるアコヤガイの増養殖の可能性を探っていMikimoto M- Akoya x01った。この頃、全国水産品品評会で地域の有力者柳楢悦と知り合い、また、水産学の権威・箕作佳吉から、「真珠養殖は非常に技術的困難をともなうが理論的には不可能ではない」との説明を聞き、真珠養殖に取り組む決意をする。このときの決断と周囲の人々との関わりも、記念館では興味深く紹介されている。

<養殖事業での苦難と挑戦>

Mikimoto-H illust x07 養殖真珠造りを決意したものの過程は容易でなかったようだ。まず、真珠を作るMikimoto-H Pearl make x14アコヤガイの母貝養殖をはからねばならない、また、養殖真珠を作る「核」に何が適しているか、アコヤガイを傷つけずに開いて核を植え付ける方法はなにか、幸吉はまったく手さぐりで試みるしかなかった。まず、鳥羽からやや離れた英虞湾Mikimoto-H Pearl make x01の海中にアコヤガイを植え付け、いろんな核を埋め込んで真珠養殖の実験を始めた。
周囲の人から「山師」とののしまれながらも黙々と試行錯誤を繰り返していたという。この間、何度も実験に失敗し全財産を失う危機にも遭遇しMikimoto-H Pearl make x02ている。しかし、4年後の1893年、英虞湾で赤潮被害が発生する中、鳥羽の相島(現在の真珠島)にわずかに残ったアコヤガイの中に幾つかの真珠が発見された。これが、世界で初めて養殖による真珠が生まれた瞬間となっている。こうして幸吉は養殖真珠の開発に初めて成功した発明家となる。この前後の真珠誕生の模様や労苦が、記念館にパネルや写真、絵画などに展示されていて非常に興味深い。

<養殖事業と真珠ビジネスの拡大>

Mikimoto-H illust x09 こうして真珠養殖事業にめどがついた幸吉は、真珠養殖の「特許」Mikimoto-H Pearl make x03(半円真珠)をとり、本格的に養殖に取り組み真珠製作、販売に乗り出した。まず、幸吉は英虞湾の他徳島に基地を開き大規模なアコヤガイ養殖事業を進める。そして、明治33年、最初の真珠採取、33年には4200個の半円真珠を採取し、事業化に成功。一方、多くの真珠研究者が、この頃、丸い真珠(真円真珠)をつくる方法を追求していた。幸吉も、半円真珠のビジネスを拡大するかたわら、真円真珠の研究にも打ち込み、明治33年(1900)、待望の真円真珠の養殖に成功にこぎ着けた。 この顛末は、開発に当たった協力者の事績とともに記念館に丁寧に記録されている。

<海外真珠事業への飛躍>

Mikimoto-H Pearl make x05 真珠造りに成功した幸吉は、明治32年(1899)、東京・銀座に真珠専門店を開き薬用として扱われていた真珠を宝石としてMikimoto-H Pearl make x06大々的に売り出した。また、海外での真珠需要が高いことに注目し、義弟久米田武夫をアメリカに派遣、販路を探ることになる。 また、国内産の美しい真珠加工は、皇室にも珍重されるようになり宮内庁の「御用達」品となって高い評価を受けた。
こうしてミキモト真珠は海外市場でも注目されるようになり、イギリスやフランスでのビジネスの拡大につながった。この頃、幸吉は、養殖真珠宝飾品Mikimoto-H Pearl make x20Mikimoto M- Miki treasure x04を積極的に各地の万国博覧会に出店して高い評価を受けている。これら展示品は、「ミキモト記念ジュエリー」として真珠博物館の中に展示してあるが、まことに見事な出来映えである。記念館にも、初期の作品「軍配扇」が展示してあった。

こうして評価を得て内外で販路が拡大するが、天然真珠と変わらぬ質の高さに脅威を受けた欧米の宝石商は、ミキモト真珠を「模造品」として訴訟を起こすなどの反発も引き起こしている。しかし、西欧の科学者の手によって、御木本の養殖真珠が天然真珠と同様の真性真珠と認定され、ミキモトパールの名はかMikimoto-H Pearl make x11えって評判になるといった結果も招いている。こうして、ミキモMikimoto-H Pearl make x19ト・ブランドは世界に定着すると同時に、日本の養殖真珠は、主要な日本の輸出品となって世界に販路を広げることが出来たと伝えられている。この経過は、日本産養殖真珠の発展の歴史として詳しく述べられている。

<真珠の品質へのこだわり>

Mikimoto-H Pearl make x22 一方、多数の養殖業者が養殖真珠事業に参入することよって、真珠の質の低下や不良品が出回るようになり日本の真珠の評価を落とすといったこともMikimoto-H Pearl make x13発生している。このとき、幸吉がとった打開策が、大量の“不良”真珠の焼き捨てである(1932年)。多くの見物客の面前での75万個に及ぶ高価な真珠を大量に焼き捨てるというもので、世間皆が仰天する「事件」としてマスコミにも大きく取り上げられた。これを機にミキモトの名は内外でも知られるようになり、海外においても信頼のおける宝飾品メーカーとしての地位を獲得していった。このMikimoto-H Pearl make x10ような逸話も記念館では、幸吉の英断として紹介されている。

そして1900年代以降、天然真珠に対抗して日本の真珠事業は繁栄を極めたが、太平洋戦争で養殖真珠も大きな打撃を受ける。しかし、戦前から真珠に魅Mikimoto-H Lifel x03せられていたアメリカ婦人の間では何よりもミキモト真珠が貴重な土産品として珍重されていたことから、アメリカ占領軍の将校たちが争って志摩を訪れ真珠を購入する姿があったという。当時、連合軍リッジウエイ司令官も婦人をともなって鳥羽・志摩を訪れたという話である。そして、これらを好機にミキモトばかりでなく日本の養殖真珠事業も復活し、当時の日本の貴重な輸出品として振興される。敗戦による大きな失意の中にあった日本にも大きな勇気と自信を与えたと伝えられている。これらの逸話も記念館に詳しく紹介されている。

<御木本幸吉の人間像と晩年>

Mikimoto-H Kokichi x01 こうして御木本幸吉の名は「真珠王」として世界で知られるようになり、また、養殖真珠は日本の貴重な輸出品の一つとなっていった。また、ミキモトの名Mikimoto-H Hall x09は真珠メーカーとして追従を許さない有名ブランドとなっていった。
記念館では、こういった幸吉の起業家・発明家としての活動を解説するとともに、彼の人間像にも焦点を当て幾つかのエピソードや事績を紹介している。特に、真珠造りをともに苦労した妻「うめ」の記録や銅像、趣味で集めたという恵比寿像や矢Mikimoto-H Lifel x01立て、感謝状や記念品などが館内には飾られ、当時の幸吉の姿を偲ぶものとなっている。

また、晩年は、彼が初めて養殖真珠を成功させた鳥羽の「相島」を1939年「真珠ガ島」と名付け、この相島を真珠採取する「海女」や真珠養殖のMikimoto-H Ilsland x04様子を伝える国際的観光地に育て上げ、伊勢志摩全体を国立公園に育てる観光事業にも力を尽くす。また、この真珠島は日本の真珠の歴史を伝える場所として、エリザベス女王やグレース王妃など各国の王族や政治家も訪れる場ともなったと言われる。こうして、幸吉は96歳になるまで伊勢志摩の観光開発全体に尽力した。この様子は、数多く館内に飾られた写真集の中によく示されている。

♣ 真珠島と記念館を後にして

Mikimoto-H illust x03 記念館の中には「真寿閣」というコーナーがもうけられていて、御木本幸吉がMikimoto-H Hall x08晩年過ごした住居の一室として再現されている。この真寿閣からは景色のよい英虞湾と彼の養殖所がよく見え、晩年の幸吉はここで内外多数の賓客と懇談するのが楽しみであったという。
一介のうどん屋の息子が不可能といわれていた真珠養殖に成功し、ミキモト・ブランドで真珠宝飾事業の一躍世界の有名事業家の一人となった幸吉は、国際親善や民間外交にも尽Mikimoto-H Hall x04くしたと高く評価されている。

そして、時代は巡り2015年には御木本幸吉が真珠養殖に成功した英虞湾の一角賢島を場として「伊勢湾サミット」が開かれた。彼の開いた養殖真珠事業のメッカでもあった志摩半島英虞湾のこの地が国際外交の舞台になったわけで、幸吉が生きていれば感慨Mikimoto-H illust x06無量であったろうと、ふと想像したりした。そんなことを考えながら真珠島と御木本記念館を後にした。

(了)

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