――官営工場が語る日本の近代化と絹糸産業の揺籃期ー

群馬県富岡市にある「富岡製糸場」が、2014年、他の関連施設と共にユネスコの世界遺産に指定されたことはよく知られている。富岡は私の生まれ故郷でもあり、過日、この製糸場蹟を訪ねてみた。この施設は、明治5年、当時の輸出品の花形であった生糸生産振興と輸出促進のため国営模範工場として設立され、明治期の絹産業発展の基となった。

この富岡製糸場は、その後、民間に払い下げられ、片倉製糸紡績株式会社(現・片倉工業株式会社)のもとで1980年代まで操業を続け、1987年(昭和62年)に閉鎖されている。しかし、その歴史的意義から、片倉工業並びに富岡市の手で工場施設の「保全・保護」が続けられ、今日の世界遺産指定へとつながった。明治初期の赤煉瓦の建屋や宿舎、初期の繰糸作業跡などがそのまま残っており、当時の絹糸生産模範工場の操業の姿がよく再現されている。明治期の産業近代化の先駆でもある製糸業の発展を見る上でも貴重な施設である。私も、久方ぶりに故郷に帰り「製糸場跡」を訪ねてみたわけだが、改めて、明治期産業遺産の重要性と産業史意義を確認できた思いであった。 以下に、製糸場跡の様子、設立の経過と意義、明治期の殖産興業と技術移転について考えてみた。
(注)なお、この記事は2016年にHPに英文で載録したものを、改めて日本文にし改訂して作成したもの。
参考)世界遺産 「富岡製糸場 」〒370-2316 群馬県富岡市富岡1番地1
http://www.tomioka-silk.jp/tomioka-silk-mill/guide/building.html
♣ 世界遺産「富岡製糸場」の景色


「富岡製糸場」は、明治初期、日本で初めて作られた西欧式機械製糸の技術普及と絹産業振興を目指した官営模範工場だった。当時としては最も先端的な設備と様式を備えており、150年以上経った工場建屋とその構造部は今も健在である。また、工場閉鎖後も設備保全が行き届いていて当時の姿をよく留めている。工場跡に入ってみると、正面に記念碑と赤煉瓦の主要棟、繭貯蔵棟が建ち、その楼上には誇り高く「明治五年」との銘板が配置されている。

構内には、縦長の数棟の煉瓦建屋があり、それぞれ繭の保蔵倉庫、操糸棟、事務棟などとなっている。そのほか外国人技師の和洋折衷の木造の宿舎、応接場、診療所なのが構内に点在している。これら建物全体は、明治の御雇外国人プリューナと日本人技術者が設計・建築したもので、木質構造に煉瓦を組み合わせた初期西洋式建築の代表で、国宝にも指定されている。

現在、この建物、工場跡の内部が公開されており、当時の工場内の様子や作業の有様がパネルや実物で紹介されていて見物者が絶えない。絹繰糸場の内部をみると、工場内は片倉工業時代の大型の機械繰糸装置に変わっていたが、整然と並んでいる操業機械配置は、明治時代の作業の形をとどめており当時の姿を彷彿させるものだった。私も順を追って見学したが、子供時代に構内に入ったことがあるので非常に懐かしかった。
○富岡製糸場プロジェクトはいかにして始まったか


現在の群馬県富岡市は江戸時代には小さな街道筋の小村に過ぎなかったが、この地に「製糸場」を建設されたのは明治5年(1873)のことである。幕府は江戸末期に鎖国を解いて外国貿易を開始したが、日本から輸出出来るものは非常に限られていた。この中で注目されたのは生糸生産・輸出。当時、欧米では生糸の輸入需要が非常に高まっていたが、日本からの輸出には大きな制約があった。日本では当時まだ伝統的な手動の繰糸法が中心で、品質が不揃いの上供給量も限られていた。明治政府は、この問題を克服し、生糸を主要輸出品に育てるため考案したのが近代的な模範官営製糸工場の設立、これによる生糸生産技術の向上であった。この官営工場により生糸産業の全体的な発展、製糸技術の普及を目指したのである。

このため、当時、明治政府のトップであった大隈重信、伊藤博文は、明治3年2月、官営模範工場の設立を決議し、当時大蔵官僚だった渋沢栄一と協議、フランスの生糸専門家ブリューナを招聘し、さらに工場責任者に尾高淳忠(渋沢の従兄弟)をあて準備を開始する。工場地には、実地調査の上、繭の生産が盛んで、水利もよく、燃料の石炭が入手しやすい群馬の富岡地域がえらばれた。特に、富岡のある群馬中部、南部、埼玉北部は、昔から養蚕業が盛んで良質の繭が得やすかったことが大きかったと思われる。


しかし、工場建設には大きな困難が伴った。まず、蒸気機関を動かし、機械繰糸を可能にする大きなスペースをもつ西洋式煉瓦造りの工場建屋が必要で、これは日本にはない建築技術であった。このため建築設計にはフランスの西洋技術者があたった。しかし、実際の建築作業に当たっては、必要な煉瓦製作には地元の瓦造りの職人が担当、構造体の骨組みは木造、煉瓦の接合には日本古来の漆喰が使われるなど様々な工夫が施された。このため、工場建屋は、現存する和洋技術折衷による明治初期に建てられた貴重な建造物として「国宝」に指定もされている。


また、機械繰糸技術にはブリューナと共にフランスの専門家が招かれ、生糸検査、繰糸技術、工場運営方法などを伝授、工員たちもよくこれに応え生糸技術向上をはかったといわれる。そして、富岡で技術を身につけた工女たちは、後に、各地で生糸生産技術の普及に大きく貢献することになった。まさに産業近代化の実験場として、官営模範工場は機能していたといえるだろう。
ともあれ、富岡製糸場が明治5年に完成し、操業がはじめられたことをきっかけに機械繰糸技術が急速に各地で普及、機械性生糸生産が本格化、良質の生糸が大量、安定的に供給されることで生糸産業は一挙に一大輸出産業に成長することになった。
○富岡製糸場の展開と発展、製糸女工の物語


富岡製糸所場の運営開始は生産労働のあり方にも大きな変化を与えたことが知られている。江戸期までの基本的な工業労働形態は小規模な個別共同作業が中心であった。しかし、西洋式生糸生産では、大勢の工員(女工)一斉に機械に張り付いて集団作業を行うのである。また、工程別に分業があり、繭の保管や取り出し、品質検査などがシステマティックに行われた。これは、近代以前と異なった、産業革命後の工場生産様式の先駆けとも見ることが出来る。さらに、模範官営工場とあって女工の熟練度による等級付け賃金、週別休暇、宿舎や診療所の設置など、労働の新しい形も導入された。当時の女性の働き方を広げたという点でも影響は大きかったと思われる。


この点から見ると、富岡工場の建物や設備が産業遺産として高く評価されるのは当然として、それ以上に、新しい労働形態の導入が図られたことは革新的だったであろう。もっとも第一期の模範女工生は、富農や士分の師弟から選ばれた者達で、「研修生」という位置づけであった。これは工場長となった尾崎淳忠の娘が「女工第一号」であったもとを見ても分かる。
一方、その後、富岡製糸場も民営化され、また効率重視の経営となり、地方からの貧しい女工達が厳しい労働環境の中で働く工場形態に変化していったことも事実であろう。ともあれ、初期の工女達の生活と労働の姿は、当時の生き生きした記録に残されており、明治の労働形態を記す貴重な産業社会遺産となっている音も確かである。(例えば、富田英の実録「富岡日記」)
○産業遺産としての意義と世界遺産へ道


富岡製糸場は、明治初期の和洋混淆の工場建屋、初の西洋式繰糸装置、そして、新しい労働形態の導入、どれをとっても日本の近代化過程を示す貴重な産業遺産であり、「世界文化遺産」として十分な価値をもっている。しかし、この保全には、多くの困難が伴った。製糸場は片倉工業の手で1980年代まで現役工場として操業されていたが、閉鎖後は、その概観や施設をどのように維持していくかが大きな課題となった。建物の老朽化や荒廃が進行する中、その保全保護には大きな費用負担が必要で、一時は廃棄も検討されたという。しかし、地元市民や市行政当局の強い働きかけがあり、且つ、歴史的産業遺産保護に関する片倉工業の高い認識が功を奏し、1990年代から相当額の保全費用の下で施設維持と改修、保全が図られた。


この結果、明治年間の建屋、工場設備、その他関連施設が、ほぼ原形のまま残される珍しい工場遺跡となって現在に至っている。そして、2000年代にわかに明治の産業遺産をユネスコの世界文化遺産に登録する機運が生まれる中、この富岡製糸場も他の関連施設と共に日本の絹産業の発展と切り離せない貴重な遺産として登録されるにいたる。この指定に当たって、ユネスコでは歴史的産業遺産が、市民と民間企業の協力で明治期の工場運営そのままに残されている希有な例であるとして評価をしていることは忘れられない。
あとがき

私の生まれ育ったのは上州富岡で、少年時代は、まだ富岡製糸場は操業されていた。近くを通ると勢いよく機械の動く音が塀越しに聞こえてきたのをよく記憶している。また、製糸場の中にも、何回か入ったことがあり、赤煉瓦の建物と石

碑のある広い前庭、正面の古い銘板にも記憶がある。そして、住んでいた場所の近くは一面の桑畑で覆われる養蚕卓越地帯で、近隣にも繭を育て仲買する者が大勢いて絹糸と繭は日常の生活風景の一つであった。それだけに、日本の絹産業の揺籃の地として富岡製糸場と関連施設が世界文化遺産の指定されたことに驚きと感動を受けた次第である。今回、帰郷の際、改めて富岡製糸場を訪ねることが出来て、少年時代の思い出と共に、この工場施設の歴史意義を再認識できてうれしかった。

特に、明治期の日本の生糸・絹産業が如何に経済近代化にとって重要な役割を果たしたか、その中核となった一施設が故郷の富岡であったこと、製糸場設立における政府の強いイニシアティブ、お雇い外国人の役割と渋沢・尾高などの貢献、女工達の活躍など、今まで知らなかったことを多く学ぶことが出来たことは大きい。また、歴史的な工場建屋建設に当たっての地元建築技術者の貢献も忘れることが出来ない。この世界遺産登録を契機に多くの人がこの製糸場を訪ね、その歴史的意義と産業近代化向けた取組の姿を直に見て欲しいと思う。 (了)
参考文献:
- 世界遺産 富岡製糸所 http://www.tomioka-silk.jp/tomioka-silk-mill/
- 富岡製糸場とゆかりの深い偉人たち(深谷市HP)
- 上西英治「日本の絹産業から見た富岡製糸場の歴史意義」
- 和田英「富岡日記」(ちくま文庫)
- 植松三十里「繭と絆―富岡製糸物語」(文春文庫)
- 渋沢栄一と群馬の養蚕、富岡の「セカイト」(朝日新聞デジタル)2021年2月
- 富岡製糸場と三井ー近代日本の礎を築いた歴史遺産ー(三井広報委員会)
- 荻野 勝正「尾高惇忠―富岡製糸場の初代場長 」(もっと知りたい埼玉のひと) 2015/7/8
- 富岡製糸場(Wikipedia)https://ja.wikipedia.org/wiki/富岡製糸場
- 世界遺産「富岡製糸場」の歴史:大規模洋式工場に宿る和の文化