三池炭鉱関連施設を見学(世界遺産の三池炭鉱跡を訪ねる旅-1-)

    ― 明治以来の北九州の⽯炭産業の生成と盛衰を知るー

はじめに ―北九州炭鉱関連施設跡と「石炭産業科学館」へー

Miike- Illust y01.jpg  明治期に日本の近代産業の柱となった北九州の石炭産業の中心地の一つ三池炭鉱跡を訪ねてみた。訪問したのは炭鉱の関連施設、宮原抗、三池港、三池鉄Miike- Miyanohara x01.JPG道跡、そして大牟田市の「石炭産業科学館」である。同じ三池炭鉱の万田抗は時間の関係で訪ねることは出来なかった。この三池炭鉱は明治初期から中期にかけて、近代的な炭鉱運営を行うことで明治期の産業革命推進の一角を担ったと言われる。この炭鉱関連施設は「明治産業革命関連世界産業遺産」の一つにも指定された。しかし、日本の産業構造が急miike-illust-y02激に変化する中で石炭産業は次第に衰退していき、「三池争議」や大規模炭鉱事故などによって1990年代には閉山。その後は鉱山跡の建屋のみが歴史の遺構として残っているだけとなった。今回の訪問はこれら石炭産業の盛衰をたどる旅となった。訪問記録は、三池炭鉱跡を訪ねた時(1)と「石炭産業科学館」訪問(2)と二つに分けて記したが、今回は第一部の「三池炭鉱跡」訪問記となっている。

アクセス・ポイント:

  1. 宮原抗跡 http://omuta-arao.net/history/tanko/miyahara.html
  2. 旧三池炭鉱専用鉄道敷 https://www.miikecoalmines.jp/rale.html
  3. 三池港 https://www.miike-coalmines.jp/port.htm

  ♣  三池炭鉱と石炭産業

日本の石炭産業は、明治以降の重化学工業産業発展にとって意味を持つ産業分野であった。Miike- Illust x06.JPG戦後においても石炭は産業復興のシンボルとなっている。しかし、昭和30年代以降、石油へのエネルギー源転換と経済のグローバル化の波のMiike- Miyanohara x05.JPG中で石炭産業は次第に衰退していく。北海道夕張やその他も炭鉱も同様だが、九州・三池の炭鉱も次々と閉山され残るのは炭鉱跡のみとなっている。現在、観光名所として知られる「端島」別称“軍艦島”の鉱山施設も廃墟となった施設である。また、三池炭鉱で栄えた
大牟田地域は、その後、人口も減少しかっての賑わい失っている。
こういったなかで、1995年大牟田に「石炭産業科学館」という施設が誕生しMiike- Museum x01.JPGているが、この博物館をみると、石炭の利用技術の推移や採炭技術の進化のほか、日本の産業開発における石炭産業の役割、勃興と発展、そして国際競争とエネルギー・原料革命の中で産業自体が衰退していく姿がよく示されている。

(左は「石炭産業科学館」)

 ♣  産業技術史における三井三池炭鉱の意義

Miike- history x02.jpg 三池炭鉱は、江戸時代から製塩用の燃料として利用されていたが、1873年、明治政府事業として本格的な炭鉱開発が始まる。当時の殖産興業政策に沿うものであMiike- Old mining scene x01.JPGった。しかし、当時の炭鉱労働は過酷なものであった。江戸時代から明治の初期まで、主な炭鉱労働は簡素なツルハシで掘り出し、「素手」で運び出すといった非常に厳しいものであった。当時の採炭の様子を示した図がこれをよく表している。
こういったなか、官営だった三池炭鉱は、1889年に三井組に払い下げらMiike- Dan x01.JPGれ民営の炭鉱としての活動が始まる。民営後、米国で鉱山学を修めた団琢磨の尽力により近代的な大規模炭鉱としての成長を遂げた。とくに、坑内の排水と採炭のための近代的なポンプの導入、積み出しのための鉄道建設、大型船舶の接岸できる港建設(三池港)など最新の技術が導入され近代的な炭鉱経営が始まっている。さらに、1900年代には、石炭からコークス、肥料、染料などの化学製品も製造する石炭化学工場群も周辺地域に作られていく。Miike- Illust x12.JPG
戦後はエネルギー供給の担い手として、石炭は経済復興に大きな役割を果たした
が、60年代からは石炭から石油へエネルギー革命が進む中で、次第に競争力を失っていくことになる。また、相次ぐ大規模な炭鉱事故、労働争議などがあり、最後には政府の救済対象となって時代の役割を終えた。一時、機械化の推進などによりMiike- Miyanohara x05.JPG炭鉱事業の合理化も進められたが、国内炭は次第に輸入炭に置き換えられ、1997年には三井炭鉱全体が閉山となり歴史的な使命を終える。
その後は、地域の要請により、これら歴史的な鉱山施設は国の史跡となり観光も兼ねた施設として再整備されることとなる、特に、2015年に、幾つかの炭鉱施設が「世界遺産」に指定されたことから、これら歴史的史跡に焦点を当てた観光事業として活用しようという動きが地域に広がっている。 このように、三池炭鉱の歴史は日本の産業史としても非常に興味のある存在であることを実感させてくれた。

♣   宮原抗跡を訪ねる

Miike- Miyanohara x01.JPG 大牟田市中心部から少し南西の丘陵部に宮原抗跡がある。明治中期の急増する石炭需要に応えるため従来の坑道より深い炭層の開発が必要になった。しかし、Miike- Miyanohara x03.JPG竪坑には大量の地下水が湧出し採炭は困難を極めた。このため、当時、三池炭鉱の代表に就任した団琢磨は、この宮原抗に、日本ではじめて
当時世界最大級のイギリス製揚水ポンプを導入して、湧水を防ぎ石炭を量産できるようした。
これが、その後に三井三池炭鉱の事業を大きく推進させルことになる。 現在は、1901年に建てられた日本最古の揚水ポンプ鋼鉄櫓と建屋、坑内のポンプ跡が残っていて訪問者はこれらを見学出来る。私も施設跡周辺を見学したが、当時の技術的な挑戦を体感できる貴重な史跡であった。世界遺産に指定された後でもありボランティアの人が大勢施設案内してくれていた。Miike- prison x01.JPG
Miike- Hisotry x06.JPG 案内の人によれば、この宮原坑では、明治・昭和にかけて「三池集治監」という罪人収容施設から送られた囚人が過酷なこの坑内労働に動員されていたという。明治工業化の光の部分と共に過酷な現実も併存していたことも実感させてくれる。

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  ♣  万田抗跡を訪ねる

Miike-Manda x01.JPG 今回はこの万田抗跡は訪ねることが出来なかったが、この炭鉱は1902年に宮原坑に続いて開削された坑口で、明治時代に作られた炭鉱施設としては最大の規模を誇ったといわれる。大牟田市に隣接する荒尾市にその炭鉱跡がある。この炭鉱跡も世界産業遺産の一つとして登録された。現在、第二竪坑・ヤグラ、巻揚機室、倉庫およびポンプ室、安全燈室および浴室、事務所、山ノ神祭祀施設などが保存されている。この万田坑は、三池炭鉱のうちに現存する明治・大正期における最大級の施設で、戦後の1951年まで採炭が行われていた。坑内は、三池炭鉱の主力坑として、大正昭和にかけて採炭の近代化や機械化に取り組んだ炭鉱としても知られている。

 ♣ 三池炭鉱鉄道跡を訪ねる

Miike- Rail x02.JPG  三池炭鉱専用鉄道敷跡は、官営三池炭鉱時代の1878年に馬車鉄道として使い始め、1905年には蒸気機関車を導入して宮原坑や万田坑などの坑口から、積み出し港である三池港を結ぶ運炭線Miike- Railway x06.JPGとして利用された。その後、支線の整備や路線の複線化、蒸気機関車から電気機関車へと施設の更新が行われ1997年の閉山まで運行された。現在は線路こそ撤去されているが、一部の区間では閉山時の枕木も残されていて鉄道跡を見学出来る。この鉄道跡は明治時代の三池炭鉱の開発の歴史を写す遺跡として世界遺産の一つに加えられている。

Miike- Railway x09.JPG この鉄道敷の特徴は、地形上起伏が激しく、炭鉱電車は重い石炭貨物を何両も連ねて走らせねばならなかったことからせることから、地形が高いところは谷状に土地を作り変え、低いところは逆に土手のように盛土をして線路を敷設するなどの工夫も施されていた。

宮原坑跡の東側にも通っており、宮原坑跡を見学しながら私もこの鉄道跡を見学することが出来た。途中には煉瓦でできたトンネルや、古い鉄の橋等を見ることができるなど歴史を感じさせる。

 ♣  三池港施設を見学

Miike- Miike port x02.JPG 大牟田の面する有明海は遠浅で干満の差が大きく6メートル近くに達するという。このため大型の船舶が停泊するのは非常に困難で、三池炭鉱からの石炭の積み出しは小型船で行わざるを得なかった。しかし、炭鉱が発展するにつMiike- Miike port x01.JPGれて港湾の整備が求められ、1905年、潮位の調整可能な港として完成したのが三池港である。この築港に当たっては、当時世界でも珍しかった閘門が備え付けられた。三池炭鉱の重鎮團琢磨が主導して築港にあたったもので、1902年に着工し4年かけて完成している。この築港により三池炭鉱は大きく飛躍した。

この港に設けられた閘門は、船渠内の水位を干潮時でもMiike- Miike port x05.JPG外海より8.5m以上に保つことが出来と言われる。これにより、船渠内では1万トン級の船舶の荷役が可能となり石炭積み出しに大いに役立った。この閘門には、船渠側に観音開きとなる2枚の鋼鉄製の門扉が備えられている。現在、この閘門施設は非公開で直接は見学出来ないが、遠方からはこの開閉と港の外観は観察できる。私が訪ねたときには、港自体は見学出来たが閘門の動く様子はMiike- guide x01.JPG時間が悪く観察できなかった。この三池港は、現在でも、島原からの定期船や貨物の発着場として現在でも使われている。この閘門を備えた港は形状としても珍しく、また、初期の筑後地区の石炭産業の振興に役立った歴史遺産として世界遺産に指定されている。明治日本の産業振興にかけた挑戦が垣間見られる史跡であると思えた。
Miike- Port x01.JPG     (Part 1)  end

See next to the  「石炭産業科学館」を訪ねる

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Reference

  1. 「三池炭鉱の歴史と技術」(大牟田市石炭産業科学館ガイドブック)2014
  2. 「世界文化遺産―三池炭鉱」ワークプレス刊 2016
  3. 大牟田の近代化産業遺産ホームページ https://www.miikecoalmines.jp/outline.html
  4. 宮原坑跡 大牟田の近代化産業遺産ホームページ https://www.miikecoalmines.jp/miyanohara.html
  5. 宮原抗跡 http://omuta-arao.net/history/tanko/miyahara.html
  6. 旧三池炭鉱専用鉄道敷 https://www.miikecoalmines.jp/rale.html
  7. 三池港 https://www.miike-coalmines.jp/port.html