ー幕末に西欧技術の導入を試みた薩摩藩の足跡をみるー
♣ はじめに
長く鎖国政策をとっていた江戸時代の末期、鹿児島の薩摩藩は、西日本の諸藩と同様、押し寄せる西欧の軍事・植民地化圧力を強く受けていた。このため薩摩君主島津斉彬は、これら脅威に対抗するため「集成館」という軍事・産業の近代化を図る事業を1850年代に開始する。これは、砲身を作るための製鉄鋳造、西洋様式の大
型造船、綿紡績事業などの近代工場を作り上げることであった。
この施設群の遺跡が現在でも鹿児島に残っており、2015年、日本の近代産業開発ルーツの一つとして「世界産業遺跡」に指定された。これら集成館関連遺跡は、鹿児島磯地区の「仙巌園」周辺に点在しており、反射炉跡、溶鉱炉跡、造船所跡、紡績所跡、尚古集成館、紡績所技師館などがこの対象となっている。特に、「尚古集成館」は、江戸末期の薩摩藩の産業近代化を目指した集成館事業の全体像を伝える貴重な資料館となっていて重要である。
私も今回九州を旅行する機会があったので、幾つかの集成館事業の遺跡と共に「尚古集成館」を訪問してきた。以下はこの訪問記録である。これらは日本の近代産業史をみる上で貴重な施設・遺跡群であると感じた。
♣ 集成館事業とは
海外情報に接しやすかった薩摩藩はアヘン戦争の経過なども早くから
熟知しており、植民地化を防ぐには産業を近代化し、国力を養わねばならないと強く認識していた。こういった中で、第11代藩主島津斉彬は、1952年、藩政を改革し産
業の振興を図るため「集成館事業」という科学と産業の近代化事業を開始した。具体的には、オランダの書物などを参考に製鉄所(溶鉱炉、反射炉)、造船工場、紡績工場、火薬製造など建設のほか、伝統ガラス工芸品(薩摩切り子)などの工場群が作られ、技術の修得と産業振興が行われた。これは端緒的ではあったが、日本で近代産業コンプレックスが作られた最初の例であるともいわれる。「集成館事業」(第一次集成館事業)は、工業所建設において一定の成功を収めたが、1858年に起きた「薩英戦争」によって破壊され灰燼に帰してしまった。
その後、しばらくは再建されなかったが、藩主島津忠義によって1965年から再興され、「第二次集成館事業」として復活する。そして今回は、イギリス、オランダなどからの直接の技術支援、
機械設備の導入などを行う本格的な工場群の誕生となった。この中には、現尚古集成館となった「機械工場」、「鹿児島紡績所」、「紡績所技師館」などが含まれている。また、この時代に薩摩藩は、藩内の若者を数多くイギリスに留学させ西欧の科学・技術、産業を学ばせており、その後の明治期産業近代化を支える人材も育てた。
これら工場群と事跡は、旧集成館事業の遺跡と共に「世界産業遺産」に指定されている。しかし、これら工場群も、1878年の内戦「西南戦争」によって大半は破壊されてしまった。ただ、「機械工場」の建物だけは残されていたことから、1919年、この建物を活用して集成館事業全体を紹介する資料館「尚古集成館」の誕生となり現在に至っている。
このように、集成館事業は、江戸末期、佐賀藩や萩藩と同様に、薩摩藩が日本の産業近代化に最初に取り組んだ好例と位置づけられる。
♣ 旧集成館事業の工場群跡
先に述べたように「集成館事業」によって作られた工場群は消失して残っていないが、その遺構は鹿児島の磯地区に点在している。そのうち主なものは「仙巌園」内の「反射炉」跡と「溶鉱炉」跡、
薩摩切り子工芸所、瀬戸村造船所跡、郡元水車館「機織所」などである。また、工場動力源のとなった水路「疎水溝」跡(関古の疎水溝)、製鉄燃源の炭(すみ)を製造した「寺山炭窯」跡も域内に存在している。
こ
のうち、中心となる史跡は薩摩の「反射炉」である。これは、1952年、オランダの技術書を参考にして薩摩独自の工夫で建てられたもので、一号機は失敗したものの1957年の二号機は湧鉄鋳造に成功し、当時の大砲製造完成につながった。これに関連した「溶鉱炉」は、薩摩方式の石組みと水車の鞴を使い1954年に完成している。
一方、江戸時代、幕府が大型船の建造を禁止していたこともあって、造船は一本マストの「千石船」(150トン)が上限の規模だったが、薩摩藩は集成館事業の一環として、この制約を打ち破って大型船舶の製造に取りかかり、1953年、全長31メートル、370トン、大砲16門を搭載する軍艦「昇平丸」の建造に成功している。また、蒸気船製造にも挑戦し、1955年、「雲行丸」を就航させた。蒸気機関の性能は優れたものではなかったようであるが、オランダの蒸気船技術専
門書のみを参考に作り上げたといわれ、当時の伝統的技術力の高さが示されている。これをみたオランダ海軍将校も感服したと伝えられている。
また、紡績事業では、まだ蒸気機関は作られていなかったため、「機織所」に水車動力を使い、手織りでは不可能だった広織り布が「郡元機織所」で作られている。この織布は主として艦船の帆布として使われたという。これを作った「水車館」跡が現在でも残っている。
また、集成館事業では、軍需品だけでなく、伝統産業の振興も図られ、「硝子細工所」(薩摩切り子)、「諸金物細工所」なども作られている。
♣ 尚古集成館の展示と紡績所技師館
尚古集成館は、これらの集成館事業の成り立ち、経緯、成果など事業の全容を伝えている貴重な資料館である。この建物自体は、第二次集成館事業の西洋式「機械工場」として1857年建設された。内部には、島津斉彬の事跡、集成館事業の展開を示す絵図、年表、反射炉の模型、造船模型などが豊富に展示されている。筆者は、今年夏、この尚古館を訪れて見学した
が、江戸末期の日本の指導者、一般のひとびとが如何に日本の産業近代化に関わってきたかを実感できた。
この資料館には、実際に機械工場として使われてきたこともあり、当時使用された機械、製品が数多く展示されている。これらの多くは、ヨーロッパから直接輸入したもので、金属形削り盤、押し切り機、旋盤、紡績に使われた「梳綿機」など、事業の先進性を感じるものである。特に目を引いたのは金属製弾み車で動力を伝えるための大型歯車機械であった。これら機械設備をみると、江戸時代であったにもかかわらず本格的な機械加工工場を指向していたことがわかる。
また、第二次集成館事業の中核となったのは本格的な紡績工場の建設である。このため、当時の最新機械
を輸入して据え付けたほか、当時世界的な紡績メーカであったプラット社から技術者を招聘して工場の設計と技術指導に当たらせた。この技術指導の象徴が「技術館」であり、工場完成と共に1967年に建設された。工場完成後、英国人技術者は一年間滞在し200名以上の職工に蒸気機関による紡績技術を教え優秀な紡績工を育てた。
この紡績所建設に当たっては、薩摩藩の蘭学者石川確太郎の進言があったほか、イギリスに留学していた藩士が紡績近代化の必要を強く認識し、これに協力したことが大きかったといわれ、人材面の貢献も大きかったことが示されている。
後、明治になり紡績業は日本の主要輸出産業に育っていくが、この薩摩で訓練を受けた職工・技術者が各地で活躍して近代紡績業の基礎を築くこと基礎となったともいわれている。 その意味でも、この鹿児島紡績業の振興の基礎となった「技術館」の歴史的意義は大きく「世界産業遺跡」にも登録された。筆者が、この「技術館」を訪れたときには、旧来の風格を備えていつつも、改装が施され外観は綺麗な洋館建物となっていた。内部は、当時の技術者たちの滞在時の生活を再現しているほか、集成館、鹿児島紡績の諸事業、世界遺産関係のパネルなどが展示されている資料館となっている。
♣ 集成館事業の意味と感想
薩摩藩の集成館事業は、第一期、第二期とも、江戸時代の技術的、制度的な制約下にありながらも、日本の植民地化を防ぎ産業の近代化によって、地方の藩という領域を超えて、日本の産
業の力と社会の近代化を図ろうとした挑戦の息吹が伝わってくる。これは明治維新後、産業革命という形で実現するが、この試みは失敗と挑戦の繰り返しであったことは事業の経過でもよくわかる。封建体制下であっても、蘭学を通じた西洋知識の吸収と咀嚼、知識の実践化がたゆまなく進み、また、江戸時代の鎖国を越えた西欧への留学強行が明治以降の人脈を育てたことでも知られる。これらは薩摩藩だけでなく、山口の萩藩や他でも共通する近代化への苦闘であったことは事実である。
また、西洋技術の実践的吸収と応用が、日本で培われてきた伝統的技術と技能が融合し、苦労して独自の体系を作り出していたという点、失敗と挑戦が時代の制約を超えて実践されていた点などが特筆出来る点だろう。特に、鹿児島の集成館事業は、他と比べても事業のスケールが大きく組織的であったと考えられる。その意味で集成館関連遺跡が「明治日本の産業革命遺産」として登録されたことは自然だったと思える。
私も、この集成館事業に関わる遺跡群が長く顕彰されることを祈りつつ訪問を終えた。首都圏の人間にとっては、この集成館関連施設はやや遠くにあるため簡単に行くことは出来ないかもしれないが、是非訪問を進めたい場所の一つである。特に、桜島の綺麗に見える「仙厳苑」と「尚古集成館」は訪ねてみる価値がある。
(了)
参考と引用した資料:
- 図録 薩摩のモノづくり「島津斉彬の集成館事業」(尚古集成館)
- 鹿児島から始まる近代化遺産ものがたり(鹿児島県企画部)
- かごしま世界遺産の散歩道
- 鹿児島歴史資料センター「黎明館」案内(鹿児島県)
- その他、「集成館」関係パンフレット