―現存する江戸幕府の幕末”鉄造り”の足跡とモニュメントー
はじめに ー椅子韮山の反射炉跡へー
最近、思い立って伊豆韮山にある反射炉史跡を見学してきた。まだ、冬の気配が残る伊
豆であったが、近くでは桜もほころびはじめ早めの春が訪れているようだった。この韮山反射炉は、幕末、江戸幕府が大砲製造を目的とした作った洋式溶解炉の一つである。この種の反射炉は、外国艦隊の脅威を受け、軍事力の強化の必要から
佐賀、鹿児島、山口など日本各地でつくられたといわれる。このうち、史跡として炉跡が残っているのは、山口・萩の反射炉とこの韮山反射(試験)炉のみである。特に、韮山反射炉は、実際に稼働していた姿がのこる唯一の施設として重要視されている。このため、国の重要史跡とし
て指定されているほか、ユネスコの「世界文化遺産」にも指定されている。このため、観光対象としても注目され多くの人が訪れる史跡施設となっている。昨年末には、反射炉の解説や建設の背景などを展示する「韮山反射炉ガイダンスセンター」がオープンし賑わいをみせている。
See: ○ 国指定史跡「韮山反射炉」所在地:〒410-2113静岡県伊豆の国市中260-1
HP: https://www.city.izunokuni.shizuoka.jp/bunka_bunkazai/manabi/bunkazai/hansyaro/
この反射炉は、江戸末期、鎖国が続く中でオランダの書物からの知識
のみで、日本の技術者が当時の西欧の製鉄技術を学び、試行錯誤の末、実
際に稼働させた数少ない事例の一つとして注目されている。明治以降、反射炉そのものは古い技術となったが、この反射炉建設で培った技術者の経験や知識が、その後の日本の製鉄業が近代的産業として発展する上で大いに生かされている。今回は、このことに触れて考えてみた。
♣ 史跡としての「韮山反射炉」サイト
韮山反射炉跡は、伊豆長岡駅から徒歩で20分位ほど歩いた伊豆の国市鳴滝地区設置してある。敷地の広さは3000平方メートルほどで、この中に、高さ約16メートルの塔状の建屋が二つ建っており、下部には炉の焚き口と熔解台
が据え付けてある。炉の数は4つでL字型の連双式になっている。内部は耐火レンガアーチでおおわれ、外部も煉瓦組積みだが建設当時は漆喰で固めてあったという。現在は建物保護のため、外装には格子状の鉄骨が組まれている。この韮山反射炉は、建設当時、炉施設
のほか、砲筒を鋳込むための場所、砲身の鑽孔のための水車を使った錐台小屋、鍛冶場、炭置き小屋、が備えてあって、この反射炉跡全体が、砲身製造のための工場施設のような形をとっていたことが知られる。そして、ここで作られた砲身の多くが品川沖のお台場に設置され、幕府の江戸防御のための備えとされたとしている。この様子は、反射炉跡に設置された「ガイダンスセンター」にCG映像や建設当時の煉瓦、熔解鉄塊、写真、絵図など多くの展示の中によく示されている。
♣ 韮山反射炉ガイダンスセンターの誕生
この「ガイダンスセンター」は、ユネスコの「世界文化遺産」の指定を受けたのち、韮山反射炉の構造や歴史的意義や技術背景などを総合的に紹介するため設けられ、
2016年12月にオープンした。韮山反射炉を見学するには、まず、このセンターに入場して概略を知ってから実際に見聞するのが効果的である。センターには、映像ホールと展示室があり、前者では「反射炉」を築造するに至った経緯や鋳造シーンなどが大型スクリーンで紹介さ
れ、後者の展示室には、年表や写真、築造に使われた遺品などが陳列されており、築造当時の反射炉の操業が実感できるようになっている。センターは、周囲と調和するように木造平屋建ての明るくモダンな造りとなっていて、反射炉本体との景観バランスもよく設計されている。私が訪ねたときも大勢の見物者が展示を館内で鑑賞していた。
♣ 反射炉とはーその技術的背景―
そもそも「反射炉」とは何かというのが私の最初の関心であったが、このことについてもセンターの展示は詳しく解説している。反射炉を使った製鉄法は、18世紀のイギリスで開発され主として大砲製造のため使われ、19世紀にヨーロッパで普及した製鉄技術であったという。日本には、蘭学書を通じて紹介され、鎖国下にあってペリー艦隊の来訪など海外からの軍事的脅威に対抗するため急遽築造
へと進んでいったものである。このもととなったのは、ヒュゲエニンの著した「王立鉄製大砲製造所の鋳物造法」で。このオランダ書を翻訳し応用することで製作された。
日本では、古来より「タタラ製鉄」という製法があり江戸時代中期までは、もっぱらこの方法によって製鉄が行われていた。しかし、この製法は、刀剣や農具など小型の鉄製品には向いていたが、大砲のような大型の鋳物製作には向いていなかった。ところで、この反射炉では燃焼室と鉄溶解室を分けて設計し、高い煙突を設けることで上昇する熱
気流を作り出し、内部壁面に反射させることで高熱を作り出し大量の鉄を溶解して鋳物を製造するという製鉄法であった。この製法は、鉄製の大砲を鋳造するには最適の技術であったとされる。その後、この反射炉技術は古い製法となり、コークスを使用する大型の高
炉や転炉法、平炉法などが誕生して主力の製鉄技術はこれらに移行していった。しかし、幕末までの時期はこの反射炉が最新技術であり、これに頼らざるをえなかった。
しかし、この反射炉自体の修得や実際のオペレーションには、当時の技術水準を遙かにこえる困難がともなった。また、この溶解した鋳物を砲筒に仕上げるまでには砲身のくりぬきという作業が必要で、強力な動力源のかけていた江戸期の日本では大変な技術的挑戦でもあったと創造される。これら苦闘の跡は、韮山反射炉跡によく残されている。
♣ モデルとしての佐賀の反射炉建設
では、どのように韮山反射炉が開発されてきたかを、展示物や関係書などからみてみると次のようであったことが分かる。日本で最初に「反射炉」を築造し、曲がりなりに
も鋳造に成功したのは佐賀の鍋島藩であったという。藩主の鍋島直正が、江戸末期、近海の海防のため築地に反射炉を築造することを企図、蘭学技術者を動員して事業を開始したのが最初である。この事業の目途が立つにつれて、薩摩藩の島津斉彬の「集成館」事業、長州・萩でも建設を開始、各地で反射炉築造の動きが開始された。
♣ 韮山反射炉建設の経過と江川英龍
こういった中で、伊豆の代官で蘭学者とも交流のあった英側英龍が、ペリー艦隊の来航を機として、西南諸般とはやや遅れたが、江戸湾防衛の要として砲
台「台場」の築
造、「反射炉」建設を幕府に進言し実施に移された。江川英龍は、幕末江戸期に活躍した蘭学者、技術者、啓蒙家であり、反射炉の設計、西洋帆船の造船にも関わったテクノエントレプレナーでもあっつた。
当時の幕府砲術師範であった高島秋帆と親しかった江川英龍は、蘭書
を参照すると共に家臣の八田平助を佐賀に派遣して、佐賀の反射炉を実地検分して築造に取りかかった。当初、耐熱煉瓦の産地に近かった下田で築造をはじめたが、機密保持の必要が生じ急遽伊豆韮山
地区に移設し、5ヶ月かけて一号炉を完成させた。しかし、築造の立役者だった英龍が急死、その子の英敏に事業は引き継がれ、溶解した鉄で小型の18ポンド砲を作り上げた。しかし、多くの試行失敗の上できあがった溶鉄の質も不良であったという。また、安政大地震が襲い炉が大幅に破損して、築炉の結果も判明し使用不能となった。このため、韮山の技術者のみでは操業が困難となり佐賀から
技術者を呼び寄せようやく再開させ、他の3炉を完成させたという。そ
して、それから1年、7階溶解が行われたが、完成した鉄製大砲はわずか二門のみで他は失敗であったという。如何に新技術の導入が困難であったか想像できる。多くの試行錯誤と技術的工夫がなされていたが、根本原因は、材料鉄(砂鉄銑)の粗悪さ、溶解過程の不順、作業の熟練不足、炉の構造によるなどがあったことが現在指摘されている。しかし、新技術を吸収する過程での技術的な苦闘、工夫、応用などが、この「韮山反射炉」跡に残されていると評価されている。全国で江戸末期11カ所で築造されていたといわれる。この中で築造当時の姿が残っているのはこの韮山反射炉のみであり、その歴史的価値は高いといわざるを得ない。そして、その功績をたたえるため、敷地内には韮山反射炉跡の建設を推進した江川英龍の銅像が建てられている。江川英龍は、幕末江戸期に活躍した蘭学者、技術者、啓蒙家であり、反射炉の設計、西洋帆船の造船にも関わったテクノエントレプレナーでもあっつた。
こういった試行錯誤と挑戦の精神と経験が、その後の明治近代化推進における日本製鉄業の基礎となったことは間違いないだろう。特に、時代の社会的背景が
あるにしろ欧米技術者の直接指導や貢献なしに、オランダの技術書だけを頼りに作り上げた当時の日本の技術者の努力と智惠には感嘆せざるを得ない。このことを現場で反射炉を観察するにつけ思うことであった。「世界文化遺産」指定されたことももっともであると感じた。
(この江川については、当時の屋敷跡が「江川記念館」となっており、懸念館には、当時の建物、蘭学者としての事跡、医師や建築家、技術者としての多くの記録や記念品が残っている。この記念館については、別途記録を残すつもりである)
♣ 訪問を終えて印象
今回このようにして、「韮山反射炉」を見学し、幕末の技術的挑戦の姿を垣間見ることが出来たのは訪問の成果であった。 幕末の守りの一部を担った韮山反射炉は、その
役目を終わった後、幕府の瓦解を受け明治日本の陸軍省に移管(1873)され、そのまま放置されていたが、1908年、反射炉建造の立役者であった英龍没50周年に地元の努力で修復が始まった。そして1922年には国の史跡に指定される。また、1930年には伊豆大地震により反射炉上部が崩落するという保存上の危機が発生するが、戦後、地域の強い要望により1957年再び修復大修理が行われて、現在の外観のように鉄骨トラスト補強
が施された。1980年代以降も、反射炉の歴史的重要さが認識されるにつけ継続的が補修も続けられ、およそ現在のような史跡の姿となっている。その甲斐あって2007年には、「近代化産業遺産」の指定、また、2015年には「世界文化遺産」として、名を知られるようになり日本人の訪問者
のほか外国人の訪問者もたえない。このような地元の長い史跡保存の結果が、世界でも珍しい19世紀製鉄技術の遺産がそのままの姿で残されて、私たちの目に触れることのできる施設としての残った。
現在、ガイドセンターも完備した韮山反射炉の現場を訪れると、沢山のボランティアガイドの人が我々見学者を案内してくれており、地元の熱い思いを感じさせられる。地元の人にとっての自慢は、ここに韮山にくると一つは韮山反射炉、そして遠望できる富士山の眺望の「二つの世界遺産が同時に見られる」ということだそうで、観光振興にも役立っている。確かに、茶畑のある岡に出来た展望台から見ると、木々に囲まれた韮山反射炉高くそそり立つ背景には、遠く裾野までみえる雪をかぶった富士がそびえている。もうすぐ咲きそろうであろう満開の桜の中に見える反射炉跡と富士山の組合せは風景としても誠に見事であろうと思いつつ訪問を終えた。
(了)
Reference
- 伊豆の国市ホームページ (韮山反射炉)
http://www.city.izunokuni.shizuoka.jp/hansyaro/index.html - 「韮山反射炉」構造と歴史 http://kazusa.jpn.org/b/archives/3605
- 韮山反射炉案内パンフレット Japanese & English)
- 「韮山反射炉の解説」 堀内永人 (文盛堂)
- 「たたらから近代製鉄へ」岡田康吉編 (平凡社)
- 「金属の文化史」 黑岩俊郎編 (アグネ)