―⻑崎・出島の史跡の意義とシーボルト功績を訪ねて (2)
♣ シーボルト記念館の意義
長崎・出島からそれほど遠くない丘陵地に「シーボルト記念館」が建っている。シーボルトは、江戸時代、オランダ商館「出島」の商館医師として滞在し江戸時代の日本に
西洋医学の神髄を伝えたことで広く知られる、また、日本の動植物、民俗、地理学などを振興させ西欧にも日本を広く紹介した学者としても有名である。このシーボルトの事跡を後生に伝えようと、1989年、長崎市の市制百周年記念施設
として建設されたのが、この記念館である。私も、長崎・出島を見学した後、この「シーボルト記念館」を訪ねてみた。これはその印象記である。
○ 長崎市「シーボルト記念館」所在地:〒850-0011 長崎市鳴滝2-7-40
HP: https://www.city.nagasaki.lg.jp/kanko/820000/828000/p027288.html
♣ 蘭学・鳴滝塾とシーボルト
このシーボルトは、出島滞在中に医学はじめ広く蘭学を教えるための塾「鳴滝塾」をつくり多くの門弟を集めて、その後、近代日本建設の基と
なる学問・技術の普及に大きく貢献した。また、科学的な視点で日本の自然や社会、文化などを調査し、ヨーロッパに日本広く紹介したことでも知られている。
この鳴滝塾は、シーボルトが昔住んでいた土地“鳴滝”に由来し、その鳴滝の住居跡は現在史跡公園になっている。ここにはシーボルトの胸像、記念碑が建てられアジサイが植えられている。これに隣接して「シーボルト記念館」が建てられている。建物はオランダのライデン市内にあるシーボルトの旧宅を模したものであるという。
♣ シーボルト記念館の意義と展示
玄関を入ると、記念館は二階吹き抜けの建物になっており、正面にはシーボルトの大きな銅像があり、彼の日本人妻“たき”と娘の“イネ”の記念写真も飾ってある。二階部分が展示場で、シーボルトの足跡をたどる展示が時代とテーマに沿って陳列されている。
この展示内容はおよそ次のようなものであった。最初に目につくのは、シーボルトが来日した日本と世界の状況示した大きな地図と年表展示で
ある。これにより当時の時代風
景がよくわかる。第2の展示は、シーボルトの生い立ちと長崎・出島での活動の紹介、彼が生涯を捧げた日本研究と日本の医学教育のために尽くした足跡を示す実物や図、絵画などが丁寧に陳列スペースの中に納められている。訪問時には、シーボルト由来の肖像画や書状、医学器具などが展示されていた。中には、シーボルトが研修に使った眼球模型や手術器具、シーボルト自筆の処方箋、薬籠など貴重な遺品も展示されている。
第三の展示は、シーボルトが1826年に江戸幕府訪問のため旅行(江戸参府)した際の観察記録と江戸知識人との交流を示した絵画や書状や書面、そして、いわゆる鎖国令を犯したとされる「シーボルト事件」の顛末を示す展示も展
示されている。この事件は、幕府天文奉行高橋景保ほか多数の投獄やシーボルトの国外追放をもたらした幕末の大事件であったが、当時の外交関係緊張の状況をよく表すものとして貴重である。事件の発端となった伊能忠敬の日本地図(『大日本沿海輿地全図』)、樺太の地図、事件の関係者、高橋景保、間宮林蔵の肖像画などもみられる。
そして、第4の展示は、シーボルトが一端帰国し、幕末に再入国した際の足取りと事跡を示すもので、シーボルトが、日本に残した影響の大きさに触れるととともに、子孫や家族の日本との関係にも触れる展示となっている。主な展示資料としては、シーボルト著『日本』、
『日本植物誌』、『日本動物誌』(復刻本)、シーボルト書状(いねあて、複製)、シーボルト名刺、(複製)、鳴滝塾舎写真(複製)などがある。また、シーボルトの娘であり日本ではじめて女医となった「楠本イネ」の遺品、産婆免許鑑札願などの珍しい資料も展示されている。ちなみに、シンガポールボルトの娘である「イネ」と鳴滝塾で学んだ日本人門弟たちと心温まる交流は多くの小説などにも取り上げられていて、展示の中にもこれが反映されている。
♣ シーボルトと出島、そして蘭学
江戸時代の日本の海外情報と医学を中心とした科学技術知識は、長崎・出島を通して、「蘭学」という形で各地の日本の指導的地位の人たちに伝わったことはよく知られる。そのなかで、最も影響のあった人物がシーボルトであったろう。このことはシーボルトの史跡や記念品に現れている。
特に蘭学は、日本の知識人の間に深く浸透し新しい科学的知識を広げ、やがて幕末から明治にかけての時代をリードする大きな思潮の源泉となった。この蘭学普及の場となったのが「蘭学塾」である。このうち、シーボルトの居所が
学習の場となった蘭学塾「鳴滝塾」は広く知られる。ここでは、蘭医師 高良齋、二宮敬作、美馬順三、伊東玄朴、
伊藤圭介などが学び、医学の普及に貢献した。また、大阪では、緒方洪庵の「適塾」には、幕末維新
の立役者長州の大村益次郎や明治の知識人福沢諭吉
など、後に幕末明治にかけて活躍する人物が学んでいる。江戸では、日本解剖学の先駆で、「解体新書」を表した杉田玄白の江戸蘭学塾「天真楼」などが知られている。
これら各地域で作られていった「蘭学塾」は、大なり小なりシーボルトの影響を受けし、出島通詞によるオランダ翻訳知識の恩恵を強く受けつつ進展していったことは歴史がよく示している。
さらに、1855年、長崎・出島の商館長の協力により作られた江戸幕府の「長崎海軍伝習所」には、九州各藩や幕府の若手が集められ時代を動かす多くの人脈を形成した。その伝習生には、勝海舟や榎本武揚、五代友
厚など江戸末期の政治を動かした主要人物が含まれている。また、この長崎伝習所では、練習船を使った軍事訓練のほか物理、化学の学習も行われ科学的知識の普及にも貢献している。 この海外知識の普及と明治維新に至る社会革命の先駆けとなったのが、江戸中期から末期にいたって盛んになった「蘭学」であり、その源流の一つとなったのが出島を舞台としたシーボルトの日本人知識人に対する知的インパクトであったと思われる。
♣ シーボルト記念館訪問のあとで
このように長崎・出島とシーボルト記念館を訪問したあとに実感したことは、江戸期の出島が日本の科学的知識の普及や政治外交の唯一の窓口として日本近代史形成の大きな役割を果たしたことである。また、この重要性が現代改めて見直され、出島復元という形で現在の我々にも目に見える形で実感できるようになったこと
の意義である。
ここで確認できたことは、「出島」からもたらされる微かな情報・知識がやがて「蘭学」という大きな川となり、蘭学塾に学んだ多くの先進的知識人が、幕末から明治にかけて社会的な革新を促し近代化を導く力となった時代の文脈を実感できたことであった。また、その中でのシーボルトという傑出した科学者の役割と日本人との交流の深さも見て取ることができた。まことによい旅の記憶であった。多くの人がこの長崎・出島に連なる歴史遺跡の道をたどって、日本の近代史の一コマを味わってほしいものだ。
(了)
Reference:
- 「シーボルトの見たニッポン」(シーボルト記念館)
- 「長崎遊学9出島ヒストリア」長崎文献社
- 長崎市「シーボルト常設展」ホームページ
- “楠本イネ”(https://ja.wikipedia.org/wiki/楠本イネ
- 「シーボルトと日本の近代科学」宮坂正英 (Civil Engineering Consultant July 2016)
- 板沢武雄「シーボルト』吉川弘文館 1960年、
- ”鳴滝塾“ https://ja.wikipedia.org/wiki/鳴滝塾
- Note: シーボルト記念館の館内展示は撮影となっていた関係上、記事上の画像は多く上記の資料等から引用している。